Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner

 

梅の咲く日/久望 蜜

  満員電車にもまれ、会社へ行き、夜遅くに帰って眠るだけ。毎日そのくり返し。来る日も来る日も、ずっと。
 そうして、わたしの心は少しずつ削られていく。一体いつまで、こんなことを続けるのか。
「アハハ、ウケルー」
 若い事務員たちが意味のない鳴き声をあげる。獣のほうが、よっぽど有意義なことをいっているに違いない。
 迎合するだけの声、それに気をよくする上司たち。無意味なだけのその応酬に、吐き気がする。
「コレ」
 ふいに目の前に投げだされる書類の山。相手の男を見ると、こちらには見向きもせずに立ちさっていく。
 せめて、「よろしく」とか「やって」とかいえないのか。
 性別が女性とはいえ、愛想のないわたしはとっくに見限られているらしかった。もっとも話しかけられたところで、今さら耳障りのよい言葉を吐くオウムになる気もしないが。
 ただ、モヤモヤは消えずに澱のように溜まっていく。
 周りなど気にしなければいい。自分でこの生き方を選んだのだ、むしろ気にするほうが間違っている。
 そういい聞かせても、どこか落ちつかない。
「大丈夫。わたしは大丈夫」
 別に、大したことではない。野生動物ではないのだから、周りとうまくいかなくたって死ぬわけじゃない。
 趣味もないのだから、会社と家の往復なだけの暮らしに不満があるわけでもない。社内の誰とも話さず、ただ黙々と仕事をこなすだけ。残業続きなのはどうかと思うが、まだ大丈夫。わたしは何があっても平気だ。
 別に平気だと、思っていた。

 ある寒い冬の日の朝。一人暮らしのマンションの庭木を見ると、一本だけ白い蕾ができていた。
 就職してからここに越してきて、数年経つ。でも、これが何の木なのか興味がなかった。花が咲いたところも覚えていない。
 思えばずっと、余裕がなかった。助けてくれる人は誰もいなくて、わたし自身が走りつづけるしかなかった。止まっては駄目だと思っていたのかもしれない。毎日が息苦しく、窒息しそうな日々。だから、花なんか見る余裕がなかった。
 でも、ふと思ってしまった。
「走りつづけるのって、しんどい」

 わたしは駅で、満員じゃないほうの電車に乗った。何時間もコトンコトンと揺られ、目的地もないまま旅をした。
 とある、寂れた無人駅に着いた。ここが終点のようだ。
 携帯が何度か鳴っていたので、会社からかもしれない。でも、出なかった。こちらから連絡することもしなかった。今はそれでいいと思った。
 あまり見慣れない名前の無人駅を降りて、まっすぐ歩く。当然、当てなぞない。ただ、何もかもがどうでもよかった。
 人家もまばらな田舎道を歩いていくと、神社の案内が目に入った。矢印はどう見ても、山道を指している。
 ここまで来たのだ、何かのお導きかもしれない。そんな気になり、山の中へわけ入った。
「はぁ、はぁ……きっつい……」
 山道は、想像以上につらかった。日頃の運動不足がもろにたたった。踵がペタンコの靴を履いていたが、それでも山に入るには装備が足らなかったと後悔した。
 別に、どうしても神社に行きたいわけではない。きついなら、ひき返せばいい。
 そう思って登りはじめたし、今でもそう思っている。しかし、なぜか歩みは止まらない。どうせ、この先に何があるわけでもないのに。
 山の空気はどこまでも澄んでいて、都会とは違う。痛いくらいのそれを肺の奥まで吸いこむと、涙が出そうになる。けれど、ペシャンコな肺はどこまでも新鮮な空気を欲するので、嫌でもまたとりこまなければならない。
 苦しい。とても苦しい。
 でも、どこか心地よかった。ここ数年にはなかった、生きている実感がある。わたしは今、何ものからも解放されていると思えた。
 でも、実際のところは、重力にも体力にも逆らえなかった。さすがに心臓の悲鳴を無視するわけにはいかず、短い休息をとることにした。
「帰ったら、スポーツジムにでも通うか……」
 日々の運動の習慣にも気をつけなければならないと、切に思った。しかし、最近の家と会社の往復生活を思うと、ジムに行く余裕などあるだろうか。
 会社終わりは、もちろん時間がない。休日は仕事の疲れから、ずっと寝ている。
 どうしても時間をつくるなら転職するしかないが、転職活動をする時間も気力もない。こうやって消費されていく社会人は多いだろう。
 もってきた水を大事にちびちび飲みながら、思考が現実に戻っていた。こんな山の中でそんなことを考えるなんて、馬鹿みたいだろう。わたしは水をカバンにしまうと、また歩きだした。
 最後は、傾斜が急な石階段。はるか頭上に、石づくりの立派な鳥居がそびえ立っている。
 運動不足なこの脚に、どこまで追いうちをかければ気がすむのだろう。というか、疲労はすでに腰まで来ている。明日は、絶対に筋肉痛で動けないこと受けあいだ。
「杖がほしい……」
 老人のようなことを口走りながら、階段を一段ずつ上る。段の高さもまばらで、体力が削られていく。この後はこれを降りるのかと思うと絶望しかないが、今は何も考えずにひたすら上る。
 上から風が吹くと、花びらがひらひらと舞いおちてきた。白く儚げなくせに、妙に存在感がある。
 その光景は、どこか夢のようで。気づけば、わたしは苦しいのもそっちのけで階段を駆けあがっていた。

 上りきった先には、満開の梅が溢れていた。白や桃色、薄いのから濃い色まで。境内にはさまざまな梅の木があり、社を背に上品に咲いていた。何とも幻想的な光景である。
 まるで狐に化かされたような気分になり、頬を思いきりつねる。
「いたたた!」
 なるほど、しっかりと現実のようだ。
 参道を歩くと、梅の花弁が降りそそぐ。神社は無人らしく、人の気配はない。信心深いほうではないが、とりあえず社の賽銭箱に百円玉を投げいれた。
 手を合わせて祈るポーズをしてみたものの、お願いするようなことはない。神社に来たときの習慣というか、挨拶のようなもの。いや、せっかくだから、ここに来られた礼でも述べておくか。
 手を合わせたまま思案していたわたしの後ろに、ふと人の気配がした。驚いてふりかえると、牛の面を被った着流しの男が立っていた。狐に化かされたかと疑ったが、まさか牛だったとは。
 呆気にとられているわたしを見て、牛が声をかけてきた。
「綺麗だろう? もうすぐ、梅祭りの時期だ」
「はあ。こんなところに、人が来るんですか」
 つい、率直な感想をいってしまった。慌てて相手を見たが、特に気にしたふうでもない。
「お前さんは都から来たのかい?」
「わたしには、あんまり合わないところでした」
 わたしは、田舎の生まれだった。
 親の転勤であちこち転々として仲のよい友だちもできず、これといった理由もなく都会に出た。反動からか転勤があまりない職場を選び、一人暮らしを始めた。変わらない人間関係というものに憧れたのだと思う。
 しかし、待っていたのは煮詰まってくたくたになった関係性で、こんなものは理想と違うとヘソを曲げるばかり。環境を改善することも、自分の悪いところを直すでもない。
 主体性をもたず、かといって周りにも合わせられず。それなのに、勝手に寂しがって崩れていく。いわば不良品だ。
「そりゃあ、気の毒に」
 わたしの心を見透かしたような言葉に、少し苛立った。
「ここは、ずいぶん田舎ですね。こんな神社、参拝客なんて来ないんじゃないですか」
「ここが賑わうのは、梅祭りのときだけだ。お前さんも遊びにくるといい」
 そういって紺の着物をひるがえし、去っていこうとする。
 いいすぎたと後悔して、わたしが慌てて後を追うと、急に牛が歩を緩めてふりかえった。
 その手には白い花のついた梅の枝が握られており、それを無造作にわたしに押しつけてきた。
「梅の花言葉には、忍耐なんてのがある。それ自体は美徳だと思うが――」
 瞬間、目も開けていられないほどの突風が吹き、梅がこぼれた。
「ほどほどにな、人の子よ」

「こんなところで、どうしたんだ?」
 気がつくと、何人かの顔が目の前にあった。軒並みおじさんからおじいさんばかりで、それぞれに心配そうな顔をして、わたしを囲んでいた。他人からそんな顔をされるなんて、いつぶりだろう。
 どうやら、わたしはいつの間にか社の戸の前で寝ていたようだった。先ほどまでとうってかわって、境内は人の話し声で騒がしい。驚いて周りを見まわすと、おかしなことに気がついた。
 境内には、何本もの梅が植えてある。それは、先ほどまでと何も変わらない。
 ただ違うのは、梅の花が全く咲いていないことだ。あれだけ綺麗に咲きほこっていたのが、嘘のよう。白や桃色の蕾はあれど、咲いている花は一輪もない。
 あの光景は夢だったのか。どうりで、この世のものとは思えぬほど綺麗だったわけだ。
 そんな納得とも落胆ともつかないことを思いながら、ふと手もとを見やると、近くに梅の枝が転がっていた。そして、周りにはこぼれた花。
「夢じゃなかったの……?」
 そう呟いて、梅の花を手にとる。ほのかに、いい匂いがした。わたしはおじさんたちを見上げて、尋ねてみた。
「この神社で、梅祭りってありますか?」
 なんの根拠もないのに、わたしには確信があった。案の定、おじさんたちは頷いた。
「一週間後にある。ここには、その準備をしに来たんだよ」
 梅の花は、まだ咲いていない。わたしの住んでいるマンションの庭にあったのは、梅の木だった。一本だけ、寂しげに咲こうとしていた花。
「あの、わたしも手伝ってもいいですか?」
 今年こそは、梅の咲いていく様をこの目で見ていこう。ここの梅は、孤独ではないのだから。

 

第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize

入賞作品

 

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 ペットとの絆、猫への愛情

Mr. & Mrs. Abe Background of Creation

 
"Mr. & Mrs. Abe" is a new jewelry house that presents a unique world view and values through beautiful and high quality jewelry.
 
The creative director's original experience is the inspiration for his work, and he places great importance on his worldview.
 
 

Prunus Mume

The "Prunus Mume" collection, which we consider our identity collection, was inspired by the plum blossoms of Dazaifu, the hometown of our creative director.
 
The plum tree is a symbol of learning and knowledge because of its connection to Dazaifu and Sugawara Michizane, the god of learning, culture, and the arts, and it is also a symbol of talent and beauty because of its beauty and practicality.
 
It is also a symbol of perseverance and foresight because it blooms at the end of winter.
 
 
 

Pet Jewelry

私たちのペットジュエリーコレクションは、愛する小さな家族のための、本物のジュエリーです。
 
Made of platinum & lab-grown diamonds, these products are made with the highest attention to material and design, and can be used as both memorial goods and fashion items.

As a fashion item:
The design and quality are such that not only pets but also their owners can wear them. It is also possible to enjoy coordinating with other pets.
 
As memorial goods:
This is a way to preserve the bond and memories of your pet in the form of jewelry, and to engrave them as a memory forever.

Therefore, our pet jewelry can offer a completely new value to previous items and services.
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Story behind Our Items

In addition, all of our products are made by hand, one by one, to order, in our historic workshop in Yamanashi Prefecture.

For this reason, it usually takes about 1.5 to 2 months from the time of order to ship. We are in the process of building a system for shipping outside of Japan. Please consider using an import agent when purchasing from outside Japan.

 

Mr. & Mrs. Abe