Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner
ミライ/見坂卓郎
あば、だあ……。
よたよたと歩きながら、一歳の娘がこちらに向かってくる。よだれがたっぷり垂れている。すべてが自分のためにあると信じきっている笑顔だ。
「ごはんにしよっか」
「だ……まんま」
娘はかなりの食いしんぼうだ。出されたものはぺろりと平らげ、おかわりする。「ママ」の次に「マンマ」を覚えた。いまだに「パパ」はあやしい。夫は朝早く仕事に出て夜遅く帰るので、顔を合わせる時間がどうしても短くなる。本人は娘に嫌われているのではないかと心配しているが、たぶんそういう問題ではない。
食いしんぼうはおそらく私の遺伝だ。夫は身体がでかいわりに小食なのだ。私はその逆。娘はさっそく、やわらかくしたニンジンを元気に頬張っている。
「まま、まんま」
「はいはい、おかわりね」
その旺盛な食欲を眺めながら、私は嵐のような二年間をふりかえっていた。
命の瞬間、というものがある。
それはたとえば、妊娠検査薬に線が入った瞬間。最初は薄かった線が、スマホで何度も撮るうちに濃くはっきりした線へと変わり、驚きが喜びに変わる瞬間。
あるいは小さい卵みたいなものがエコー写真に現れた瞬間。頼りないけれどたしかな心音がきこえた瞬間。お腹がどんどん大きくなり、内側から思いっきり蹴られる瞬間。
そういったいくつもの瞬間を重ねて、この子は生まれてきた。もちろん楽しいことばかりではなかった。子どもができにくい体質だった私は、何度もチャレンジしては打ちのめされ、たくさんの涙を乗り越えてきた。これで最後というところまで追いつめられた。そして、やっと妊娠したと思ったら次の苦しみがやってきた。つわりだ。
つわりの症状は人によって異なるという。私の場合、まっさきに卵料理が食べられなくなった。匂いどころか、見ただけで吐き気におそわれた。毎朝かならず目玉焼きを食べるほど大好きだったのに。まるで自分の好みを勝手に上書きされたみたいだった。卵だけかと思ったら、浸食されるように他のものも受け付けなくなった。
それでも自分のために、そしてお腹にいる赤ちゃんのために栄養を摂る必要があった。試行錯誤を繰り返し、たどり着いたのが「梅おにぎり」だった。自家製のものではなく、コンビニにある三角形の、冷たいご飯とパリパリした海苔のおにぎりが一番良かった。梅干しのほどよい酸味が気持ちを落ち着かせてくれた。まさに地獄に仏だった。この世に梅おにぎり以外の食べ物は存在しないかのような勢いで、私はとにかく食べまくった。
「食べないよりはいいけど、塩分がね……」
あるとき母が心配そうに言った。母の意見はもっともで、妊娠中に塩分を摂りすぎると妊娠高血圧になる懸念がある。私たちの命をつなぎとめてくれた梅おにぎりは万能とはいかなかった。
これが最後のおにぎりと決めて、心ゆくまで味わった。ひと噛みするたびに感謝した。胎児に害をなすかもしれない塩分を身体が求めてしまうのは不思議だった。夫と母が代わりになるものを探し回ってくれたが、どうにも胃が受け付けてくれない。私はふたたび衰弱していった。吐き続けると脱水症状になるので、水分だけは舐めるようにして摂った。
そんなとき、どこかに出かけていた母が新聞紙の包みを持って帰ってきた。
「なにそれ?」
朦朧とする意識のなかで訊ねると、母が包みをひらいてみせた。入っていたのは小ぶりな一本の枝だった。
「梅の花」
母は深緑色の小枝を私の手のひらに載せた。よく見ると節の部分がくねくねと曲がっている。顔の近くまで持ってくると、強い香りがした。まだ小さな蕾なのに、自らが梅であることを誇っているような香りだった。
「香篆梅(コウテンバイ)って言うらしいよ」
鼻を近づけて、くんくんと嗅いでみる。私の好きな香りだ。そのうちに、胸を覆うようだった吐き気がまるで潮が引くようにすうっと下がっていった。これだ、と直感した。
さっそく花瓶に生けて食卓に置いた。見栄えもいい。梅の香りに包まれていると、少しずつ食欲も湧いてきた。
「お、洒落てるね」
帰宅した夫がすぐに気づいた。私が髪を切っても気づかないくせに、と思ったが黙っておいた。夫にかまっている暇はない。食欲があるうちになんでもいいから胃に入れる。
そうして梅の枝は手放せない存在となった。外出するときはビニール袋に入れてバッグに忍ばせ、いざというときに鼻をつっこんで吸った。はたから見ればあやしさ満点だが、なりふり構っていられない。身体のなかにもう一人いるなんて、そもそもまともな状態ではないのだから。
そんな梅生活を送るうち、お腹のなかで育っているものが梅の蕾そのものではないかという妄想みたいな感情が浮かんできた。はじめは夢のなかだったのかもしれない。梅の香りが鼻から体内に入って夢と現実をつなぎ、私と赤ちゃんをつないだ。私たちはひとつの大きな植物だった。このまますくすく成長して、きっとおへそから可憐な花が咲く。梅の香りを身にまとって。
際限のない妄想を夫にぶつけると、意外にも真剣なまなざしが返ってきた。
「男の子だったら、梅太郎にするか。梅から生まれた梅太郎」
真剣なのはまなざしだけだった。私は思わず噴き出した。
「いま令和なんだけど」
「逆に古風なのが良いんだよ」
つわりの時期が終わると、暴走するような食欲が戻ってきた。二人ぶんよりもっと食べた。産後の体型がとんでもないことになりそうだった。役目を終えた梅の枝は、花瓶のなかでひっそりと枯れていた。
「女の子ですね」
産婦人科医がそう断言したのは六か月目のことだった。男の子の場合はエコーに例のアレが写れば確定できるが、女の子の判定には時間がかかる。
「梅太郎じゃなかったか」
病院から帰る車のなかで、夫はそう言って笑った。じつは私には、女の子だという確信めいた予感があった。可愛らしい梅の花から連想していたのかもしれない。
お腹が膨らむにつれて息苦しくなってきた。頭がぼうっとするのは、血液を赤ちゃんに吸い取られているからだろうか。もうすぐ新しい命が生まれる。この世に人がひとり増える。よく考えると不思議なことだと思った。
名前を考えなければならない。自分の頬を叩いて目を覚ます。名づけ本やネットで調べながら、良さそうな候補を挙げていく。苗字とのつながりや音の響き、画数を考慮しなければならない。五つまで絞り込んで、半紙に筆で書いて並べてみたが、どれもしっくりこない。
気づけば臨月を迎えていた。名づけは生まれてからでも間に合うとはいえ、できれば生まれた瞬間にその名前で呼んであげたい。八方ふさがりで母に電話をすると、話が横道にそれていき、やがてあの「梅の花」の話題に行き着いた。
「香篆梅、だったよね。あれどうしたの」
「ご近所さんの庭からもらったの。あ、ちゃんと許可は取ったよ」
「そりゃそうでしょ」
勝手に折ってきたと言われたらたまらない。もし仮にそうだとしても黙っていてほしい。私は紅色の可憐な蕾を思い出した。咲く花は純白で美しい。たしか蕾から花へと色が変化するのを「移り白」というのだった。
「あの香りのおかげで助かったんだよね」
壮絶なつわりのことを思い返していると、母がぽつりと言った。
「梅は蕾より香あり」
「……え?」
「梅は花が咲く前の、蕾のときから香りがある。才能がある人は、幼いころからその実力を発揮するっていう意味」
「それだ」
脳内で明かりがともった。もうそれ以外考えられない。胸のつかえが取れたような気がした。すぐに電話を切り、筆で半紙に書きつけてみる。
『美蕾(みらい)』
やはり思ったとおりだ。完璧な名前だ。
調べてみると画数も悪くない。響きにはもちろん「未来」の意味も入っている。ためしにお腹に向かって呼びかけてみたら、なんとなく反応があった。
「名前、決まったから」
帰宅した夫にそう言い放つと面食らった様子だったが、説明するとすぐ納得してくれた。大切な子どもの名前なので、意見が一致してほっとした。
急な破水から始まった最後の山場を越え、新しい命が誕生した。顔じゅうを口にしたみたいに大声で泣いていた。私も泣いていた。泣きながら、はっきりとその名を呼んだ。
「ミライ」
ニンジンをたらふく食べた娘は、幸せそうに眠っている。目が大きいせいか、眠ると少し白目になってしまうのがなんとも愛らしい。ぱっちりした二重はきっと夫の遺伝だろう。
食卓には香篆梅が飾ってある。母は毎年、冬になると小枝を持ってきてくれるのだ。いつか母のご近所さんとやらにお礼に行くべきだろう。
小ぶりな蕾のところに鼻を近づけて思いっきり吸い込む。心が晴れていく。
「ん?」
梅の香りに、濁った臭いが混じっている。さては、と思い娘のおしりを見ると、オムツの目印の色が変わっていた。モリモリ食べるぶん、モリモリ出るのだ。元気な証拠だ。
母から託された梅のバトン。いつか娘にも手渡すときがくるのだろうか。そんな未来に思いを馳せつつ、息をとめてオムツを替える。
第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize
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