Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner
梅の花のように/みじんこ
私には忘れられない人がいる。昔付き合っていた彼氏だ。一緒に過ごした思い出は色褪せることなくわたしの心に残っている。今は感情に蓋をしてしまったが、感傷に浸るといつも思い出す。春夏秋冬全てに思い出がある。春は、付き合い始めた時期で、一緒に花見をして屋台に出ている食べ物を食べた思い出。夏はプールや海水浴に行った思い出。秋は紅葉を見に公園に行きスタバを飲んで葉っぱのベッドの上で寝た思い出。そして冬はイルミネーションを見て、別れた思い出。どうしても毎年冬になると別れた記憶を思い出してしまう。そのため、イルミネーションやスキーの広告、雪や梅を見ると振られた記憶をありありと思い出してしまい、心がブルーになる。冬を連想させるものは全て嫌いだ。スキー部にも入りたくないし、梅干しを食べているだけでしょっぱい記憶を思い出す。反対に、春は付き合った季節であり、桜のもこもことした花びらを見るたびに本当に元気になる。出会いの季節である春と、お別れの季節である冬、私はこの言葉通りの一年を送ったのだ。これは、21歳の出来事である。
そんな彼は花の中で一番、梅の花が好きであった。彼に誘われ、梅の花を見るために湯河原梅林を見に行ったこともある。しかし、その旅行を最後に私たちは別れた。旅行で思い出を作ってから別れるということは切ないものであり、友人との旅行をするたびにその時の記憶を思い出してしまう。本当に弱い人間なのだ。
これは、今25歳になった自分が振り返っている物語である。当時私は、虚無に襲われ苦しんでいた。楽しい時も、辛い時もほぼ全ての瞬間に虚無な気持ちがべったりとくっついていた。いつでも寂しく、なんで生きているのかを毎晩考えていた。別れてから何年かこの負のループが続き、前を向くことができなかった。前を向こうと自己啓発本を読んでみてもどれもしっくりとこなかった。例えば、辛い記憶を手放す、という自己啓発本を読んだ時があったが、その時は手放せても虚無が襲ってきた瞬間に辛い記憶を思い出してしまう。私は本当にめんどくさい人間なのだ。虚無感からくる寂しさで、飲み会に足繁く通い、沢山の友達と交流をしたがふとした瞬間に虚無になり一人で家に帰宅する時に泣きながら帰る日もあった。そんな私は、文章を書き、自分の気持ちを整理している時だけ虚無感を感じないことに気がついた。それからは、日々死生観だったり、友人について、恋人について自分がどう思っているかを全て具体的に書くことにした。私が当時書いた、生きる意味についての日記を少しみてほしい。
謎の空虚感などさまざまな理解できない感情があり、そこの克服の仕方がわかっていない。だけど、それを克服した=自分を理解したってことだと思うからその時にわたしは 幸せ を感じるのではないかと思う。結局自分自身を理解することって本当に難しいよね。
人について、ここが嫌だここが嫌いだここが好きだ、とかは思うけれど逆に自分のどこが好きだ、無理だとか分かりづらい。自分を理解することこそ人生のテーマ、そう思う。
このように分析をして、自分の思考を文章に残して自分自身を理解する、ということを行った。日記にも書いたが、自分自身を理解するということは非常に難しい。自分がなぜ今悲しいのか、怒っているのか、感情全てに理由を明白につけることができる人がいるだろうか。難しいからこそ、私は自分を理解するために毎日自分の感情を振り返ることにした。そうすることで、自分という人間を徐々に理解することができるようになった。勿論、虚無感を感じる瞬間はあったとしても、それを自分の個性として、受け入れることができるようになったし、対他人、ではなく、対自分、に対して時間を使うことができるようになり、私は流れに身を任せた浅はかな行動を取ることが少なくなったように感じる。自分を大事にすることができるようになった。以前のように、人に連絡をしまくり、寂しさを紛らわすような行為もしなくなっていった。といつのも、逆転の発想で人以外の様々なことやものに依存することにしたのだ。例えば、日記を書くこと、勉強をすること、編み物をすることなど。最初は依存する、という心持ちで行っていたことだが、それは依存ではなく自分自身を高める武器として輝き、数年前の自分より洗練された自分を手に入れることができたような気がする。
そしてこのような状態の方が彼氏というものもなぜかできやすいらしい。だからなのだろうか。私は新しい彼氏ができた。実に2年ぶりであった。職場の同期の人であり、お互いを尊重し合える関係であった。付き合う際に自分の時間を大切にしながら恋愛も楽しむことができた。そして、春夏秋冬全ての季節を美しいと感じた。嫌な記憶や過去さえ美しいと感じ、全ての季節を愛することができた。葉っぱが落ち、丸裸になったイチョウの前を通る時も、自分が振られて落ち込み、依存をしないと生きることができなかった過去を思い出し、懐かしく感じられた。冬への嫌な気持ちはだんだんと消えていっていった。それは、彼と付き合ったからなのか自分が変わったからなのか、どちらかわからない。ただ自分の中で大きな変化を感じることができた。しかし、私は元彼の梅の花が好きと言ったことはいまだに理解ができなかった。やはり桜の方が美しく感じていたし、梅の花の美しさはよくわからなかった。やはり、昔好きだった人の好きなものには私自身抵抗があるのかもしれない。
そんな中、私は2月ごろに福岡に旅行に行った。元彼との最悪の思い出を塗り替えるためでもある。北海道、沖縄など主な観光地は訪れたことがあるが福岡だけは行ったことがなかった。事前に計画を立て、タイムスケジュールまで作って旅行した福岡旅行は本当に楽しかった記憶がある。そして、観光名所である太宰府天満宮を訪れた際に、まず目に映ったのは咲き乱れる梅の花であった。香ばしい匂い、全てが私を包み込んでくれた。今まで、梅に対して嫌悪感を抱いていた自分は自分の感覚に戸惑いを覚えた。こんなに綺麗だったのか、と。しかし、思えば梅の花を間近にみたのも初めてだった。私は彼氏に、梅ってこんなに綺麗だったなんて、と呟くと、彼氏は冬の寒い中、主張しすぎることなく静かに佇んでいるその姿に自分の求めている女性像を感じると言っていた。私は驚いた。彼がそこまで考えていること、そして、元彼が梅の花を好きだった理由はわからないが同じ理由なのかもしれないという発見、そして、自分がそんな自立した女性になれているのかという焦り。私は困惑し、何か言葉を発することができなかった。大好きな彼にそのような期待をされている、と思いプレッシャーとなった。嫌われたくない。しかし、その困惑と同時に香ばしい匂いと共に佇む梅の花を美しいと感じた。私は、旅行が終わった際に彼に、自立してる強い女性を求めているのかと聞いたところ彼は笑うばかりできちんと答えてくれなかった。自分自身で考えろということなのだろうか。
私は旅行から帰り、梅の花の意味を調べた。才色兼備を象徴する花であることを知り、落ち込むばかりであった。東京に戻ってからさらに仕事や趣味に打ち込み自分を磨いていこうと決意した。前友人から、自分を磨くと、努力していない人とはいつのまにか大きな差になると言われた。私はその言葉が好きだった。少しずつ努力することで昨日の自分とは少しでも成長していることに気がつき、いつか大成すると信じてやまない自分がいた。しかし、努力というのは頑張ったところで、誰かに褒められる代物ではないのだ。そのためなぜ自分が頑張っているのか、と疑問にさえ思う日もあった。
季節は流れ、4月になり、桜の季節となった。やはり桜は綺麗だと思った。しかし、去年の梅の話を忘れずにいた自分は、梅と桜、どちらにもそれぞれの良さがあることに気づいた。まるで主人公のように人々を魅了する桜と、静かに佇んでいて才色兼備であることを象徴する梅。私は素直に梅の花が象徴する人生も素敵だなと感じた。そのとき、ふと自分が昔ほど自己主張をしなくなっていることに気がついた。当時の元彼と付き合っていた時、私はメンヘラを起こし、自分の欲求しか考えられなかった。しかし、今は相手の気持ちをきちんと考え、自分の時間を大事にできていることに気がついた。だから、梅の花を美しいと思ったのか、とそうふと思った。もしかしたら、元彼が梅が好きだと言った時に嫌悪感を感じたのは自分が自己顕示欲が強く、自分の主張を通したかったから梅の花を本能的に嫌っていたのかもしれないと。そして、今の彼氏に梅の花のような女性が理想と言われて心配にならなくてもいいのだと感じた。だって私は、梅の花を理解できたのだから。梅の花の意味を身をもって理解できたのだからきっと近づけているのだろう。そう思いたいし、そう信じている。
ここまで辿り着くのに何年かかったのだろうか。何年もかかったけれど、今の私は言える。梅の花は綺麗だと。そして、今は梅の花が好きだと言った元彼の発言さえ懐かしく感じる。全ての思い出を集めて自分が構成されているから。自分のどんな過去でも受け入れられるような気がした。そんな成長した私は、桜と梅、どちらか好きかと聞かれたら、きっとこう言うだろう。
どちらも綺麗だが、私は梅のような女性になりますよ、と。なりたいじゃなくて、なるんだ。
第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize
入賞作品
Our Story
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ブランドの問いと哲学
"Be the Origin of Meaning."
この言葉は、Mr. & Mrs. Abe の根幹を成し、創造の道しるべ。
「意味」がブランドや価格、他社や海外の価値基準に委ねられていないか?
私たちが提案するのは、こうした画一的で外部中心の評価軸から脱却し、
「個人の記憶や感情、精神的な共鳴」といった内面に根ざした新しいラグジュアリーのパラダイム。
これは、単に「高価であること」「誰かにすごいと思われること」ではなく、
“なぜそのジュエリーを選び、身に纏うのか”という個人的な理由や物語に価値を置くということ。
Mr. & Mrs. Abe が象徴として選んだのは、「梅」という一輪の花です。
その「たった一輪の花」に徹底的に没入することで、フォーカスを絞りコンセプトに集中しています。
この一点への集中は、ジュエリーにおけるラグジュアリーの再構築そのもの。
多くの選択肢や華やかな装飾ではなく、意味の深さと密度を追求するのです。
これにより、「ラグジュアリー=社会的承認」という古い枠組みを静かに解体し、
「ラグジュアリー=個人の真実」へと書き換えています。
私たちの作品は批評的思考の使者であり、思考と記憶、文化的対話を促すために作られています。
問いかける――「永続とは何か?」「美を所有するとはどういうことか?」
Mr. & Mrs. Abe は単なるブランドではなく、身にまとう哲学である。
地位ではなく文化を、模倣ではなく意味を求める人のために。
他人が定めた序列を追う必要はない。
ジュエリーは単に光を反射する金属ではありません。
それは何を信じ、何を選び取るかという態度の表明です。
Mr. & Mrs. Abe のジュエリーを身につけることは、
問いを生きることを選ぶこと。
問いかけ、挑み、記憶するシンボルと共に歩むことです。
私たちは広告費で「第一想起」を目指すメゾンではありません。
美しさや価値は刷り込まれるものではなく、内から目覚めるものだと信じています。
文化的プレゼンスは数字ではなく記憶に宿ります。
あなたは意味の消費者ではなく、意味の起点です。
価格の序列やブランドのエコーに惑わされず、
あなた自身の問いの深さと感じた確かさを信じてください。
Be the Origin of Meaning.
Mr. & Mrs. Abe