プラナスミューメ特別賞

 

ゆれる/佐藤相平

 家に帰ると、兄はリビングで左右にゆれていた。CDラジカセからは「世界に一つだけの花」が流れている。「ただいま」と声をかけると、兄はゆれたまま僕を見ずに「おかえり」と言った。
 曲が終わった瞬間に兄はゆれるのを止め、「戻して」と言った。僕がラジカセを操作して、また「世界に一つだけの花」がはじまると、兄はさっきよりも大きく左右にゆれはじめた。兄は自分でラジカセを操作できるけれど、僕がいる時は絶対に僕に操作をやらせる。それに、古いラジカセでCDを使って聞くことにこだわっている。
 僕は傷が目立つランドセルを机に転がした。これを使うのも、どうせ今週で終わりだ。
 台所で米をとぎ、炊飯器をセットする。ジャガイモの芽をとり、皮をむいていると、兄が「ムコウ」と言った。僕はCDを入れかえ、「夜空ノムコウ」を流した。母が好きそうな昔の曲ばかり、兄は聞きたがる。
 僕はジャガイモと玉ねぎを切り、みそ汁をつくった。メインのおかずは母が買ってくる。僕の仕事は終わりだ。マンガでも読もうかなと考えていると、「止めて」という声が聞えた。
 ラジカセの停止ボタンを押すと、兄は「牛乳」と言った。僕は青いプラスチックのコップに牛乳を注いだ。兄はポケットから出した軍手を両手にすると、僕を見つめながら牛乳を飲んだ。口から牛乳がこぼれて、フリースや床が濡れた。僕は雑巾をしぼり、服や床を拭いた。軍手からすっぱい臭いがした。兄は食事の時は必ずこの軍手をつける。使わない時はジーンズの右ポケットにずっと入れたままにしていて、洗わせてくれない。
 母が買ってきたのは半額になったアジフライだった。三人で夕ご飯を食べながら、ラジオでクラシック音楽の番組を聞いた。母によると今日はモーツァルト特集らしい。僕はクラシックを聞くと眠くなるけど、兄はゆっくりと左右にゆれている。
 兄はテレビが嫌いだ。父はテレビが好きだったから気にせずに見続けた。兄が暴れると、父は兄を叩いた。母は父と離婚した時にテレビも捨ててしまった。

 次の日の休み時間、トイレから教室にもどる途中で、突然肩を叩かれた。
「よう、修二はもう部活決めたか」
 振り向くと、立っていたのは岩佐だった。まだ三月なのに半ズボンを履いている。
「ないけど」
「じゃあ、剣道部に入ろうぜ」と、岩佐はガッツポーズをしながら言った。
 いきなりだなと思った、岩佐とは一緒のクラスになったことがない。去年、保健委員会でちょっと話したくらいだから、オレはお前の下の名前知らないんだけど、ってくらいだ。
「そもそも、どこにも入らないと思う」
「青春をムダにするなんてもったいない」岩佐は大げさに頭を抱えた。「だから、剣道やろうぜ」
「なんで」
「修二、剣道っぽい雰囲気があるから」
「意味わからん」
 逃げようとすると、岩佐が「早まるな」と肩をつかんできた。
「じっくり話そう。放課後は空いてるか」
 今日は木曜日だから、母は家で仕事をする。
「まあ、いけるけど」
「じゃあ児童公園で。四時な。四時」と勢いよく言うと、岩佐は行ってしまった。
 教室にもどると、岡田から「榛葉も誘われたか。アイツ、みんなをしつこく勧誘してるからな」と言われた。岩佐の声が大きかったから話が聞こえていたらしい。一場が「剣道部に入ろうぜ」とふざけた声で言った。おもしろいとは思わなかったけど、周りが笑ったから、僕も笑うことにした。
 家に帰ると、兄は年末年始のスーパーのチラシを広げていた。クリスマスケーキやおせちが好きみたいで、ボロボロになったチラシを取っておいている。「公園に行ってくる」と、兄と母に声をかけた時も、兄は鳥の丸焼きを見つめていた。
 約束の十分前にはついたはずだけど、岩佐はもう来ていた。なぜか鉄棒にぶら下がっている。
「早かったな。トレーニングにならなかったぞ」
 岩佐は逆上がりをすると、「やってみろ」と言ってきた。仕方なく僕も隣の鉄棒で逆上がりをした。
「逆上がりができるなら剣道は余裕だろ」
「意味わからん」
 岩佐は強く足を振り上げ、もう一度逆上がりをした。
「岩佐はなんで剣道部の勧誘をしてるの」
「剣道が好きだから。修二もサムライとか武士にあこがれるだろ」
「まあ、ちょっとは」
「マジか」岩佐がうれしそうな顔をした。
 僕はあわてて「あこがれるけど、なりたいわけじゃない」と言った。「っていうか、みんなを誘いまくってるんだろ。入ってくれるヤツがもういるんじゃないの」
「いないんだなそれが。やっぱり臭いからか」
「臭い」
「しまった」岩佐は自分のおでこを叩いた。「でもオレは名前の通り正直だから教えてやる。防具って、特に籠手が、すげえ臭い。特に夏はヤバい」
「籠手って、手につけるのだっけ」
「イエス」
「岩佐の名前って、しょうじき、だっけ」
「ノー、アイアムまさなお」
 岩佐は前回りで二回転した。僕は兄の軍手の臭いを思い出した。
「でも、原中学の剣道部なら、修二も確実にレギュラーになれるぜ。部員が少ないし弱いからな」
「強い中学に入ればいいのに」
「オレが弱いチームを強くするんだよ。その方がカッコイイだろ。だから仲間が必要ってわけ」岩佐は僕にウインクをした。
 その後は、サムライと武士、どっちの呼び方がカッコイイかという話で、岩佐が一人で盛り上がっていた。僕はそれを聞き流しながら、剣道をする自分を想像していた。
 周りが暗くなってきたから、僕たちは公園を出た。剣道部のことは断ろうと思いながらも、言い出せなかった。気づいたら帰り道が分かれる交差点にもう着いていた。僕が話しかけようとすると、岩佐は「さらば」と言って、走り去ってしまった。
 
 次の朝、兄はお米を軍手に乗せたまま動かなくなった。昨日の夜、あまり眠らなかったせいかもしれない。母は「今日は止まっちゃう日かな」と言いながら時計を気にしていた。母が仕事に行くときに兄を養護学校まで送っていくんだけど、間に合いそうにない。兄は学校を休むことになった。
 靴を履く母に、僕は「今日はすぐに帰るから」と言った。
「急がなくていいよ」こっちを向いた母の眼は充血していた。「ちょっとくらい一人にしても大丈夫だから」
 母がいなくなると、兄はあっという間に朝ご飯を食べてしまった。
 卒業式の前日準備は午前で終わった。荷物や掲示物が少なくなった教室を見ていると、ちょっと寂しくなった。みんなもそう思ったのか、帰り道ではいつもは別々のグループも一緒になって大きな集団が自然とできた。その中に岩佐もいるんだけど、僕は近づかないようにした。
 児童公園に近づくと、岡田が立ち止まり、「ヤバいのがいる」と言った。兄が滑り台で飛び跳ねながら楽しそうな声を出している。鉄板を踏む音がここまで聞こえる。一場は「ケンイチさんじゃん」と言うと、「おっ、おっ」と声を出しながら左手で口を叩いた。兄のマネらしい。似てないけど何人かが笑った。岡田が「アレって、榛葉のアニキだろ」と言うと、みんなが僕のことを見た。「まあ、一応」と答えてから、僕はため息をついた。なんで今、この公園にいるんだよ。
「ここからはサムライタイムだ」という大声が聞えた。岩佐だった。僕に駆け寄ってきて、右腕を刀のようにして腹を斬りつけてきた。僕はやられるフリをしながら、意味わからんし、完全に一、二年生のノリだぞと不安になった。予想通り、岩佐が「ふう」と満足そうに息を吐いた後、みんな固まってしまった。岩佐は気にせず「悔しかったら反撃してみろ」と叫び、走り出した。僕も腹を押さえながら追いかけることにした。後ろからは誰も来ない。
 鉄橋を走り抜け、岩佐は交差点でやっと止まってくれた。お礼を言おうとすると、岩佐は「油断するな」と叫び、また斬りつけてきた。胸を強く叩かれたからかなり痛い。岩佐も叩いた手を痛そうにしている。ムカついたから斬り返したけど、岩佐はすばやく右にかわした。
「強くなるために修行が必要だな。オレはいつでも協力してやる」岩佐はガッツポーズをしてから「でも今日は用事があるからまた今度だ。さらば」と走り去っていく。僕は背中に向かって「ありがとう正直」と叫んだ。
 岩佐の姿が見えなくなると、僕は公園にもどることにした。兄を残したままにはできない。
 公園に入ると、兄は砂場にいた。「健兄、帰ろう」と声をかけても来てくれない。兄を待ちながら周りを見ていると、不思議な梅が咲いていることに気づいた。紅、淡い紅色、白、いろいろな花が同じ木に咲いている。木につけられたプレートには「思いのまま」と書いてある。変な名前。
「これ見て」と兄に呼びかけたけれど、見てくれない。「さっきは見捨ててゴメン」と謝ると、兄は一人で家に歩き出してしまった。でも、怒ってはいないみたいだ。「今度の一番線にまいります電車は」と歌うように繰り返している。「どんな電車が来るの」と聞くと、兄は突然走り出した。兄の走り方は前かがみで、ヨロヨロしているから、全然速くない。僕は早歩きでついていくことができる。でもやっぱり、兄とコミュニケーションをとるのは難しい。
 家に帰ると、僕たちは母がつくっていったおにぎりを食べた。兄は僕より先に食べ終わると、「夜空ノムコウ」と言った。僕は曲を流した後、ぼーっと兄のことを見ていた。本当に楽しそうにゆれている。
 僕は立ち上がって兄と向かい合うと、一緒に左右にゆれてみた。
 曲が二番のサビに入ると、兄のゆれが激しくなった。僕は頭がグラグラして、鼻の奥が痛くなった。兄に合わせるのはあきらめて、自分のペースでゆれることにした。兄が笑った。僕も楽しくなってきた。
「この動き、竹刀を避けるのに使えるかな」
 兄は「おう」と声を出した。

 

 

 

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