Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner

 

画用紙の白は白じゃない/生地カン

  洗面台で手を洗いながら、焼き餅のような自分の顔を眺める。
「明日やっぱ、帰省したくないかも」
 言ってしまって、あ、と思った。
「了解」
 あ、という間に旦那に肯定されてしまった。胸のもう少し下あたりが、ヒヤッとした。
「いや、ダメでしょ」
 荷物を置いて、リビングのソファで胡座をかいている旦那の隣に腰掛け足を投げ出す。
 帰省と言ってもそう遠くない。「暇なら土曜日来れば?」くらいに言われているから、絶対行かなきゃいけないわけでもない。
「何で? 帰りたくないんでしょ?」
 何でって……
「頼まれ事あるし」
 何で。何でそう思ったか。決定的な理由は思い当たらないが、鏡に映る自分を見て、ふとそう気付いてしまった。
「今まで行きたくないなんて、一度も言わなかったよね」
 何で行きたくないのかに対して答えられない私の言葉を、旦那が少し後押しする。
「頼まれ事が面倒だから? 庭仕事なら俺がやるから大丈夫だよ」
 実家の庭に立っている梅の木が、源平咲きするのが気に入らないらしく、母はついに切り倒す事を決めたらしい。
「手伝うのは全然いいんだけど。なんか、切っちゃだめかなって……」
 幼い頃からずっと見てきた梅の木だ。思い入れがないと言ったら嘘になるが、思い入れのために、乗り気じゃないのではなかった。
 
「昔お母さんに、『画用紙の白は白じゃない』って言われたの」
 何で、の答えになるか自信がないまま私は会話を見切り発車した。
 当時私は白い画用紙の「白」が好きだった。絵の白い部分は、可能な限り画用紙の白を利用したかった。
 その絵を見た母が、「画用紙の白は色じゃないよ。白いところには白い絵の具を塗りなさい」と言ったのだった。
 その考え方には、私も納得していた。「私の白」は美術の授業では、きっとマイナス評価だ。例え画用紙の白と同じ白を表現したいとしても、同じ白を用意して、色を重ねる「べき」なのだと思う。
 だけど私は「画用紙の白」が好きで、少しでも画面に残したいと思っていた。
 それを母に伝える事はなかった。伝えようという気が起きなかった。私は白を、白で塗った。
 
 母はいい人だ。
 昔、通学路が汚いと、毎朝一人でゴミ拾いをしてくれた。それはいつしか子どもたちに広がり、いつの間にか毎朝たくさんの人が手伝うようになっていた。
 母は「いい事の出来る人」だ。人の嫌がる仕事を買って出て、先回りに行動する。みんなから慕われていた。
 でも正しい事の信念が、私にとっては強すぎた。
 そんなの買うの?
 これ可愛いじゃん。
 私は特に、母と服を買う時間が苦手だった。私と母は趣味が合わず、私が服を選ぶと否定し、自分の好みの服を勧めてきた。
 私は、気になる服を手にとって母に見えやすいようにして、母がその服を評価するのを待つようになった。
 
「ちっちゃい頃私、お母さんが絶対正しいと思ってたの。算数の模範解答みたいに。でも、私が当時のお母さんの年齢になって、今さら対等に、何言ってんだって、思ってきたかも」
 旦那はゆっくりと、視線を宙に泳がせながら、「うん」と立ち上がり、ローテーブルの上を片付け始めた。
 暗くなって来た。私はカーテンを閉める事にした。真っ暗な窓ガラスに反射して、自分の顔がうつる。
 昔、私の顔を見た母に「しもぶくれ」と言われた記憶が、呪いのように付き纏う。自分の姿を見る度に思い出す。どんなに弱気な日でも、この話だけは絶対に誰にも言わない。
 母は強い人で、誰にどんなに否定されようと、気にしなかった。怒る事も、悲しむ事もなかった。強い反面、「言ってはいけない事」のラインが甘い。
 ゴミ拾いを「恩着せがましい」と言われたときも、容姿を見て「老けたね」と笑われたときも、「やれるだけの事をやって生きるだけ」と言っていた。簡単に傷付かなかった。
 でも、お母さんの心の強さと、他の誰かの心の強さは同じじゃない。

 付き合っていた期間は長かったが、旦那と結婚し、一緒に住み始めたのは半年前だ。
 付き合うきっかけは正直ほとんど消去法で、身近な男性で話が合う人が彼だった。
 アプローチされて、付き合うことになったのだが、彼は「いい事ができる人」ではなかった。面白いジョークが言える訳でもなければ、ものすごい気配りが出来る訳でもない。でも、「悪い事をしない人」だった。人を貶すジョークは言わないし、自分の意見を言うときも人を馬鹿にしたり、否定したりしない人だった。
 付き合ってしばらくした頃、こっそり描いていた絵を出しっぱなしにしてしまった。かなり、白っぽい絵だった。それを旦那が偶然見つけて、しまった! と、一瞬思ったが、取り返さなかった。私は、彼の目があまりに嬉しそうなのを見て「結婚する?」と言っていた。

「テーブル動かすからそこにいてな」
 ソファの前に置いていたローテーブルをどかしたかと思えば、お客さん用の布団を敷き始めた。テレビ台の横に立ててあるスタンドライトを点け、布団の上に部屋中のクッションを集めて、一つ、私に渡してきた。
「ここおいで。何飲む?」
 深夜二三時。リモコンで誰もが知っているコメディ映画のタイトルを入力しながら、布団の上を指差している。
「何急に」
「夜更かししようぜ。明日の予定もなくなった事だし、布団の上でお菓子食べながら映画観よう」
 旦那は最近私がハマっている可愛いパッケージのビールを二本冷蔵庫から取り出し居間の電気を消した。

 思い出した。この映画。結婚する前に一緒に映画館で観ようと思って観れなかったやつだ。上映前にランチを食べて、映画館に向かう途中で、私が貧血を起こした。近くのベンチに座ったら、すぐに落ち着いた。
 私は「今ならまだ間に合う」と言って立ち上ろうとしたが、「映画はいつでも観れるし、今日はここでお花見しようよ」と、彼が提案してくれた。
 使われる事のなかったチケットは、もったいなくて本の栞にしたけど、どこかに行った。
 
 真っ暗な部屋でテレビを観ながら、お布団の上で飲み食いなんて、罪悪感がウズウズした。子どもの夢をそのまま描いたような夜だ。
「映画始まってもポップコーン食べる手止まんないよね」
 物語も佳境というところにも関わらず、旦那が私を見て言った。
「美味しいもん」
「ポップコーン食べてるときのほっぺ、見るの好きなんだよな。映画館にはチーズ味のポップコーンなんかないし、来週末も家でなんか観ようぜ」
 なんだか思い切り照れてしまった。映画を観ながらポップコーンを食べる頬を見られてるなんて、思わない。私は「いつの間にこういう事思い付く人になったの?」とポップコーンを押し付けた。

 気付けば胡座をかいていた。「明日布団洗うから、気にしなくていいよ」という言葉には甘え切れないなと思っていたが、翌朝一匹だけ脱走ポップコーンが発見された。
 夜更かしと言っても、幼い頃から二十三時から七時までの就寝をしっかりと習慣づけられていた私は、二本目の映画の途中で眠ってしまった。
 何で行きたくないか、考えて、夜更かししているうちに、そんな気持ちはどこかへ行ってしまった。旦那にそう言うと「じゃあ行く?」と言われて、夕方実家に行くことになった。
 毎日、午前中からテキパキと働く母に今さら行くと連絡したら「こんな遅い時間に動くなんて」とぼやかれるんだろうな、と思ったけれど、案外歓迎された。ちょっと驚いた。私の考え過ぎだったかもしれない。
 家を出る前に、鏡で髪を整えた。昨夜言われた事を思い出し、ニヤけそうになるのを我慢して(ポップコーンを買って帰ろう)と思った。

「夕飯食べてくでしょ?」
 実家に着くのとほとんど同時に、母に訊かれた。迷惑だろうからと遠慮したが、「多めに作ってあるから。エビフライ好きでしょ」と言ってくれたから甘える事にした。
 居間のソファに座ると、窓枠に梅の源平咲きが切り取られて見える。朝の空気の白さも似合うが、夜に向かう陽にまみれた姿も、なんだかお洒落だった。そこにメジロが飛んできた。まるで帰って来たみたいに見えた。
「メジロだ!」
 夕陽と梅とメジロの共演が可愛過ぎて、私はつい、大きい声を出してしまった。
「どれどれ?」
 旦那は植物や動物に疎いが、私の話題にはとりあえず何でも食いついてくる。
「あれか。あれって梅の木だよね? ……え? もしかしてあれを、切っちゃうんですか?」
 やっと気付いた旦那が、母を見ながら指を指す。
「うーん、うちの梅、紅白ハッキリしないのがなんか、みっともないじゃない?」
 それに対して私が「こんなところで、赤でも白でもなく立ってるのが、可愛いのよ」と言うと母は、嬉しそうに笑った。

 

 

 

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