Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner
梅はこぼれる/日根野 通
「はい?今何と?」
稽古場の掃除をしていた冬木園枝は真顔で聞き返した。
「今日から1カ月以内に菅原道真公を題材にした脚本を書いてほしい。上演時間は約1時間。よろしく」
劇団の座付き演出家の東条はすでに背中向けていた。
これは断る事は許されないという無言の圧力。
「分かりました。やってみます。」
東条の背中に向けて返事を投げる。彼は振り返らず手を振って答えた。
冬木はこの劇団の俳優だ。主役を務めた事はないが、脇役として着実にキャリアを重ねている。学生時代に脚本から演出まで手がけた事はあるが、特に脚本を書くのを得意だと思った事はない。それを誰かに話したこともない。
なぜ東条は冬木に脚本を書けと言ってきたのか。その謎はすぐに解けた。
「ほら、来年は3丁目の天神さんの創建1000年記念と市政100年のお祝いで色んなところでイベントをやるじゃない。うちの劇団はオリジナルの公演を依頼されているのよ」
劇団事務の秋川さんは語る。
それで脚本が必要になるわけだ。東条は他にも何人かに声をかけていて最終的には比較検討し、上演作品を決めるらしい。まあ脚本家の候補に選ばれただけでも光栄だろう。
明日は丁度稽古もバイトもない。映画でも見に行こうかと思っていたが、1日でプロットだけでも作っておこう。
ノートを前にペンを握りしめて冬木は空を見つめる。
注文した紅茶の匂いが鼻をかすめる。
ここは読書や台本を読んだりするのによく使うカフェだ。
考えてみれば冬木は菅原道真についてさほど詳しいわけではない。同僚の謀によって九州に左遷されて、そのまま生涯を終えた人。学問に秀でていて、死後雷神になって都に災いをもたらした。
調べて行けばかなり興味深い人物だとは思うが、その生涯を芝居にしようとしたら1時間では足りないだろう。もっと象徴的な何かを題材にして、その角度から菅原道真公という人物を描いてみたい。
キーワードは学問、大宰府、雷、梅、牛。
梅か。花ならイメージを膨らませやすいな。そういえばこのカフェの名前は「プラム」だ。不思議な縁を感じる。よし、これで行こう。
カフェのロゴマークは梅の花だ。得られるイメージは「可愛らしい」だな。似たような花だと桜や桃があるが、そういえば何が違うのかというとうまく説明ができない。道真公はなぜ桜や桃ではなく梅を愛したのだろうか。
改めて三種類の花を調べてみると印象がだいぶ違った。花言葉や開花時期を加味して三姉妹として擬人化してみると、梅が気品があって誠実な長女、桃が自由奔放で活動的な華やかな次女、桜が繊細で儚げな三女っと言った感じだ。どちらかというと桜の方が長女で、花のデザインが可愛らしい梅の方が末っ子という印象があったが、花言葉を調べてみると印象が変わった。
梅の花言葉は紅梅が「優美」「艶やか」白梅が「気品」「上品」。梅全般で「忍耐」という言葉もある。大人の女性、という感じがする。しかもかなり完璧な。
今は秋、少しずつ空気の冷たさを意識するようになっては来たが、冬真っただ中の梅の花が咲いている光景をイメージするには実感が足りない。だが、ラストは梅の花で締めくくりたい。道真公の最期が決して良いものでなかったとしてもその先に美しい世界を描きたい。冬木はノートのページの一番下の行に、「終わりに梅と美しい景色」と書いた。
さて、そのラストに向かって進めるにはどういった話を作っていくか。
道真公と梅の逸話といば「飛梅」だ。道真公が左遷の際、自宅の庭の木々に別れを告げ、梅には自分がいなくとも花を咲かせて香りを届けてくれ、と言った話。主人がいなくなった庭園で、桜は嘆き枯れてしまい、松と梅は主人の元へ向かおうとする。松は途中で力尽きてしまうが梅だけが主人の元にたどり着く。花言葉の「忍耐」の元になった話だ。
梅がどれだけ特別だったかが分かる。道真公は幼少の頃より梅に親しんできた。
もし、梅の精霊がいたとしたら。幼馴染のようにともに育ってきたのかもしれない。または兄弟や親のように導き育てる存在だったのかもしれない。
冬木はノートの一番上の行に「梅の精のモノローグと二人の出会い」と記した。
喉に渇きを覚えて紅茶をすする。
紅茶はいつの間にか冷めていた。
冬木は市立図書館へ向かった。
菅原道真と梅について調べるつもりだ。
とりあえずはプロットをつくるために簡単な伝記を読んでみよう。
幼少期より漢詩の才を開花させ、時の天皇、宇多天皇に徴用される。所帯を持って子宝に恵まれて、その中で辛い事もあっただろうが順調に出世し、きらびやかな人生を歩んでいく。だが藤原時平によって醍醐天皇に対する謀反の疑いをかけられ左遷。
給料も使用人も仕事も与えられず失意の内に二年で人生に幕を下ろした。
そしてその後、清涼殿の落雷をはじめ、様々な災厄をふりまく。
現代人の感覚からすれば、事実確認をしてから処分を決めるべきだと思うし、祟りがあったから、死後に左遷を撤回して官位を右大臣まで戻すというのが、なんだか反省というよりは利己的な動きだと感じてしまう。
道真公は被害者だと思うが、藤原時平がなぜそんな進言をしたのか、そこに何かあるのかもしれない。調べてみると道真公と時平は親の代で交流があり、時平自身も道真公に代筆を依頼するなど、本人同士での交流はあったようだ。権力争いが理由とは一概には言えないのではないか。これは物語として一つのポイントになるかもしれない。
後は奥方の存在だ。定かではないが、大宰府には着いていかず、京に残ったようだ。あの惨状を考えれば着いていかなくて正解というか、道真公が連れていかなったのかもしれない。しかし、彼女の存在はかなり大きい。梅の精を女性とするならば、三角関係を描く事もできるかもしれない。
彼の人生にどのようにしてどうやって梅の精を関わらせるか、だ。
奥さんの存在を活かすならば、美しい女性として描くべきだろうが、それではありきたりな気がする。単なる恋愛関係のような存在にはしたくない。幼馴染として描くとしたら、性別を男性にしてみるか。一説では道真公には兄が二人いたとかいないとか。確かな記録がないので道真一人っ子説が優勢らしい。兄弟説を使って、兄の魂が梅の木に宿った事にして、道真公の唯一無二の親友として描いてみるか。
考えがまとまらなくなった。そんな時は視覚に頼る。花木の写真集や画家の画集などを見てみる。こういった創作物とは、芸術家と呼ばれる人たちが彼らの感性や視点で花木をとらえて、そこに意味を持たせる事で価値を創造しているのだ、と冬木は考えている。
作家が話を書くのも、作曲家が曲をつくるのも、完全なるオリジナルというものはなく、人生、生活、趣味嗜好を通して他の何かから影響を受けて、自分の見聞きしたものを自分の好みで軽量、ブレンドし、それがその人のオリジナルとして新しい命を得る。個人の個性が反映された循環、リサイクル、それが広義の芸術なのではないか、と。
そう考えながらページをめくる冬木の手が止まった。
何かを訴えかけてくる絵。中心に蛇行する川が流れ、その両岸に対になるように配置された紅白の梅。それは尾形光琳の「紅白梅図屏風」だった。
向き合う紅白梅は現実と虚ろの自分自身。それを川が隔てている。梅の精は時には幼い友人であり、供に狩りをする友人であり、妖艶な美女であり、母のような包み込むような存在でもある。
出会ったときは精霊と人間という立場てあったのかもしれない。だが少しずつ溶け合って行く。梅の精と道真公は一つになったのではないか。だから祟りという非人間的な力を得たのだ。
ふと梅のセリフが浮かぶ。懐かしがるように、そして愛おしそうに。
「私があの方と出会ったのはもう遠い昔のこと。母上さまに抱きかかえられて私の前に現れて、にっこりと微笑んだのです」
そして奥方のセリフが浮かぶ。悲しそうに、そしてどこか恨めしそうに。
「あの方の心にはずっと私ではない誰かがいました」
藤原時平は心情を吐露する。後悔と憤りと無念さを込めて。
「何も死なせる必要はなかった!なぜあのような仕打ちを?!」
道真は震える。怒りと憎しみを込めて。
「許さぬ。天皇家を藤原家を都に住まう全てのものを呪いつくしてやる」
災厄をふりまいた後、道真は暗闇の中で途方にくれる。悲しそうな目で虚を見つめる。
梅の精は囁く。優しい女性の声で。
「さあ、復讐は終わり。今度は喜びを振りまきましょう」
突如神官が現れ、朝廷に進言する。
「道真公の荒ぶる御霊を鎮めましょう」
二人の影は溶け合い、暗転。艶やかな衣装の男女が舞始めると沢山の梅の花が都に降り注ぐ。都は喜びで満ち溢れる、暗転。
最期に一本の木に紅と白の花が咲く梅の木が照らされ、花がこぼれる、そして幕。
冬木はその日から1週間で脚本を書き上げた。
時は進んで、梅の季節。
文化会館に上演のアナウンスが流れる。舞台袖で冬木は静かに幕が上がる瞬間を待つ。
桜は散る、椿は落ちる、菊は舞う。
何かで外国人が日本語は花が枯れるというだけでも様々な表現があり、覚えるのが大変だ、と言っていた、という記事を読んだ。
梅はこぼれる。まるで涙のようにこぼれ落ちてその役目を終える。
しかしその涙は地に還り、また新たな命の礎となる。
梅が私に囁きかけた。私の中から梅と道真公の物語の破片がこぼれ落ちた。そして出来上がった物語は、また誰かの心に囁きかけ、新たな物語を生み出すのだろうか。
舞台の幕開けと同時に一足早く冬木の心に春風が吹いた。
第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize
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