審査員特別賞

 

梅の香りのラブレター/おかだしげる


 それはトランプのカードをひと回り大きくしたくらいの、今では見かけない小さなサイズの白い封筒だった。庭に面した6畳ほどの祖母の部屋で、年季の入った文机の引き出しを不意に開けた時、偶然見つけたのだ。引き出しの中にはクッキーの缶箱が入っており、蓋を開けるとちびた鉛筆、ちびた消しゴム、目盛りも消え失せた定規などの文房具のほか、ノートや手帳の束が仕舞われていて、その底に封筒を見つけたのだ。
 大日本帝国郵便と印字された古めかしい4銭切手が貼ってある。切手のデザインは立派な口髭をたくわえた男の顔。たしか東郷平八郎とかいう昔の偉い軍人さんだったような。消印は昭和8年2月22日。宛名は『岡田儀郎(ぎろう)』とある。私の祖父に宛てた手紙らしい。裏を返すと差出人の名前は『谷村美代子』とある。私の祖母だ。つまり、まだ旧姓の祖母が祖父に送った手紙ということだ。
 ここはすでに主を失って1年が経過した祖父母の家。新婚の2人が移り住み、増改築をしながら住み続けてきた木造家屋だ。3年前に祖父が亡くなり、その1年後に祖母も後に続いた。その後、売却のため家の取り壊しが1か月後に迫ると、1人娘だった母は重い腰を上げ、家の後片付けに通い始めた。私はその気の滅入る作業に、「寿司を奢る」という一言にまんまと乗っかり駆り出されたのだ。
 ある程度は片付けたと聞いていた。しかし物が多過ぎた。大量の食器類、古着古本古雑誌、旅館の手ぬぐいやマッチに至るまで、ありとあらゆる日用品の数々。押し入れはもちろん、物が入りそうなスペースには何かしらの物が所狭しと、しかし丁寧に整理整頓されて仕舞われていた。母によれば、祖父は何でもポイポイ捨てる人。祖母は何でも取っておく人だった。物不足の戦中戦後を、妻として母として家を守り生き抜いてきた祖母である。物を捨てる不安感や罪悪感が人一倍あるのは仕方ない。だが、ここまでとは…。
 祖母が残した数々の物をゴミ出しのために仕分けする。不毛とも感じる作業が朝から昼をまわり続いている。そんな中で見つけた謎めいた1通の手紙である。せめて息抜きになるような何かを期待して、私はすでに開封された封筒の先からのぞく便箋を摘み出した。指先が便箋越しに透けて見えるほど、ペラペラの薄い便箋だった。
「お手紙拝見致しました。こちらは昨日までは雨ばかりのいやなお天気でしたが今日は久しぶりにからりと晴れたよいお天気になりました。此の度は縁あってあなた様の妻として戴けることになりまして、此の上もなくうれしく思って居ります。私は本当にお恥ずかしいのですが何も知りません。一から十まで、皆おしへて戴かなければなりません。でも結ばれた以上は、必ずよい女を、家内をもったとあなた様に思はれる様に努力致すつもりで御座居ます。父も草葉の蔭から此の度のことを喜んでくれていると思います。そしていつまでも私達を守っていてくれると思います」
「母さん、ちょっと来て」と私はここで読むのを止め声を上げた。「どうしたの」といぶかしげに顔を出した母に、この手紙、いや結婚直前にしたためられたラブレターの存在を知らせた。「へ~そんなのあったんだ」と素っ頓狂な声を出した母のため、所々擦れて読み辛い手紙の続きを読み上げた。当時の祖母の、はやる気持ちをかすかに感じながら。
 「私は今、家ではお料理は母の手伝いくらいはしておりますが、心配ですから女学校時代のノートや本などを出して勉強して居ります。もう十一時を大分過ぎました。母も妹達もとっくにねてしまいました。今夜はとても静かです。ペンの走る音と、時々、かすかに聞こえてくる電車の音だけです。お空にはきれいなお月様が、私達二人の前途を祝福しているかの様に見えます。お星様も綺麗です。鉢の梅の木に可愛らしい花が五つ咲きました。とてもいい香りです。秋の夜市であなた様に買って頂いた苗です。大切に育てております。明日も又、きっとよいお天気になるでせう。私はどうしてか、いくら練習しても字が下手ですのでお手紙を書くのも恥ずかしく思ひますが、今日は気を強くして書いております。では御身体を大切に。又、お便り下さいませ。さようなら お会いする日をまちつつ 美代子 二月二十六日 夜 儀郎さま」
祖母が祖父を呼ぶ時は「ねぇ」「ちょっと」「じいさん」など、ぞんざいな言葉しか聞いたことがなかった。「儀郎さまだって」と苦笑しながら母に目をやると、「あらまぁ」とまた素っ頓狂な声で苦笑いを返した。
 母によれば、この頃すでに祖母の父は戦争で中国大陸のどこかで戦死していたらしい。祖母は23歳の時に10歳上の祖父とお見合いで知り合い、ほどなくして結婚が決まった。でも溶接工だった祖父はそれからすぐに名古屋の造船所に単身赴任となり、一緒に暮らし始めたのは2年後だったという。
 それにしても、身内のラブレターは気恥ずかしいものだ。祖母が23歳の時とはいえ、自分の記憶にあるのは皺だらけのおばあちゃんでしかない。くの字に曲がった腰で入れ歯を磨く祖母の姿と、初々しい恋慕を伝える文章とのギャップは滑稽でしかない。ただ、言葉の端々に、真摯でまっすぐな強い気持ちがひしひしと伝わってくるのは確かだった。「ふぅ」とひと吹きで飛んでいきそうな薄い便箋が、少し重く感じた。同時に疑問もわいてきた。なぜ祖父宛ての手紙が、書いた本人の祖母の文机に仕舞われていたのか?一緒に暮らし始める前の2年間にやりとりした他の手紙は保管していないのか?でもまぁ『何でもポイポイ捨てる人』の祖父だから、大掃除の時に捨てているのを祖母が見つけ、結ばれる決心をしたためたこの手紙だけはと、ゴミ箱から拾い上げそっと仕舞っておいた…。そんな場面を妄想した。なんにせよ一旦は祖父に手紙は届き、祖父も読みながら「必ずよい男を、夫をもったと君に思はれる様に努力致すつもりだ」と決心したに違いない。たぶん。
「その苗が、あの木になったんだね」と声がした。今度は至って真面目な母の声色だった。何かが腑に落ちたような顔つきで、母は庭の中央に植えられた梅の木を見つめていた。3メートルほどの高さで、細く黒い枝を四方に伸ばし、5月の風に葵い若葉を揺らしている。祖母が手紙に書いていた『秋の夜市であなた様に買って頂いた苗』の、今の姿だ。
 妄想するに、2人はお見合いで知り合った後、何度か一緒に出掛けたのだろう。秋のある晩、立ち寄った夜市で、祖父は梅の木の苗を祖母に買ってあげる。それを鉢に植え育て始めた頃、2人は結婚を決める。そして新居を構えたこの家の庭に、祖母は鉢の梅の木を植え替えた。しかも庭のど真ん中に。
 母は子供の頃、梅の実を取ろうとよじ登り、枝を折ってこっぴどく祖母に怒られたことを話し出した。なぜ梅のひと枝くらいでそんなにも、と思うくらいの剣幕だったという。
 梅の実と言えば、自分も子供の頃にここに遊びに来る度に、梅シロップのジュースを祖母が作ってよく飲ませてくれたことを思い出した。葵い梅の実が漬けられた大きな瓶が台所にいくつも置いてある光景がフラッシュバックした。しかしそんな梅の木も今や老木となり、幹の内部が朽ち始め空洞ができて、梅の実もほとんど実らなくなっていた。
 薄暗い祖母の部屋で、近所のコンビニで買ってきたお茶と煎餅でひと休みすることにした。ガスも水道も電気もすべて止めてしまっているので、部屋の灯りは点かず、夕暮れの薄暗さが刻々と迫るのがよくわかった。煎餅をぽりぽりしていた母が、梅の木を見つめながら、「あの時に持っていっておいて良かったわ」と呟いた。何でも祖母は亡くなる前日、「梅の花が咲いてるはずだから」と、母に梅の木のひと枝をわざわざ折って、入院中の病室に持ってこさせていた。風邪をこじらせ軽い肺炎の診断を受けた祖母は、前年の年末から入院していた。それでも数日後には退院する予定だった。いくつか花とつぼみを付けた枝を持参して見舞った母は、祖母の枕元に飾った。ツンッと梅の香りが狭い病室に漂うと、「ほんとに、いい香りだね」と深呼吸を繰り返し、祖母はいびきを掻きながら眠り始めたという。その翌日、祖母はおやつの時間に心臓麻痺であっけなく亡くなった。饅頭を手にしたまま、テーブルに突っ伏しているところを看護師に発見されたのだ。饅頭を喉に詰まらせて苦しんだわけではないので、身内としては少しは救われる。それに結果的には、旅立つ前に、大切に育ててきた梅を愛でることもできたわけだ。
 1か月後にはこの家は取り壊され、祖父母の半生を見守ってきたあの梅の木も倒され、ここは更地となる。私は出しっぱなしにしていた便箋を仕舞おうと、白い封筒をひろげた。とその時だった。封筒の底に茶色に変色した何かが見えた。封筒を逆さにして軽く降ってみる。手の平に落ちてきたのは、花弁だ。一片、もう一片と、次々5枚の梅の花の欠けらが手の平にのった。色褪せた死んだ梅の花。そして次の瞬間、白昼夢なのか気のせいなのか、でも微かに、でも確かに、静謐ですっきりとした甘い香りが鼻をくすぐった。それは失われたはずの香り。およそ60年前、祖母が心を込めた手紙と一緒に忍ばせた、梅の花の香り…。母と私は、顔を見合わせていた。
 今、右手には新聞紙に包まれた梅のひと枝がある。祖母の梅の木を挿し木してみたらと母に薦められ持ち帰っているのだ。おまけに左手には駅前の花屋で買った青い花。スズランと言うらしい。花なんて未だかつて買って帰ったことがないから、妻に「何か後ろめたいことをしでかしたのでは」と勘ぐられることになるだろう。まぁそういう気分だったと素直に言うしかない。あの梅の香りを鼻の奥で感じながら、私は家路を急いでいる。

 

 

 

第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize

審査員特別賞受賞作品

 

審査員コメント

この作品は、祖母の部屋で発見された手紙を通じて、主人公の家族の歴史と思い出について描かれています。作中の手紙の文面は、作者の祖母が実際に書いたものだそうです。祖母が祖父へ送ったラブレター、その内容を通して、当時の祖母の率直な気持ちが伝わってきます。また、物語の中で登場する梅の木は、祖母と祖父の絆や、家族の思い出を象徴しており、作品全体で梅が大きな役割を果たしています。過去と現在をつなぐ梅の花の香りを通じて、家族の絆や愛情がじんわりと心にしみる、素敵な作品だと感じました。

 

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