Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner

 

未知の世界に灯台を/梅里彩矢

 この世界は、まるで銀世界だ。美しく、素敵で、厳しい。そして私は放浪者。当てもなく彷徨って、前も後ろもわからずに、雪の中を惑い歩く。吹雪の日も、冷え込む日も、星空の日も。誰も見たことがない今日で息をして、生きている。

 ごうと飛ぶ飛行機の声が、ぼうっとしていた私の意識を現実へ引き戻す。窓際の私の席からは、静かに舞う小さな冬の天使がよく見えた。微睡みを邪魔した犯人は近くの空港から飛び立ったばかりなのだろう。標識もなにもない空の中、目的の地へ真っ直ぐと進む姿が羨ましい。寒空の下悠々と空でワルツを踊る雪と飛行機はさながら水墨画のようで、モノクロの世界に確かにある美しさを感じる。
「こら冬野 梅!よそ見しない!」
神経質な古文の教師が甲高い声を上げる。二年生も終盤なのに、だなんて口だけは達者な彼女は短歌の解説を再開する。
「古典の世界では、花といえば梅なのです。このクラスの梅はあんまり可愛くないみたいだけど」
皮肉たっぷりの彼女の言葉に、私はぐっと拳を握る。きりきりと爪が食い込む。あたりからは冷たい視線が投げられる。長い黒髪がカーテンのようにその視線を遮る。彼女は満足したようにほくそ笑んで、何事もなかったかのようにチョークを黒板に滑らせた。
 梅の花。私を象徴する花であって、高校生になって私が嫌いになった花。冬に生まれたからだなんて安直な理由で一見おばちゃんくさい響きの名前をつけるなんて、考えが足りないと思う。私は梅の花を気に入っているけれど、周囲は違う。『ウメ』という名前が持つ拭いきれない古臭さは、私が除かれるに足る理由であった。いつも本を読んでいることも原因のひとつかもしれない。ちょっとでもみんなと違えば排斥される、そんな空間で、私はひとりぼっちだ。
 休み時間になれば、私は逃げるように図書室へ行く。晴れた雪原のように静かで、本の虫たちの息遣いが聞こえるこの場所は私の一番好きな場所。そして運が良ければ、こんな私に懐いてくれた雪うさぎにも会える場所。
 「梅ちゃん先輩だ!こんにちは〜!」
「こんにちは因幡さん」
「ゆきでいいっていつも言ってるのに…」
囁き声で言ったこの子は因幡 ゆき。毎日毎日小説の棚に齧り付いている私に声をかけてくれた、一年生の子だ。そしてなにより、これが一番大きいのだが、私の名前を唯一褒めてくれる人物なのだ。私が梅を嫌っているのは知っているはずなのに、いつも嬉しそうに私の名前を呼ぶ。それはまるで、何も知らない純粋なうさぎが社会から弾かれた放浪者にじゃれつくようだった。
 初めて会ったときにはもう、私はクラスに居場所がなかった。例に漏れず本の虫な私はいつも小脇に本を抱えて、お気に入りの小説がある本棚の近くの席で詩集を読んでいた。繊細で美しくどこか儚い印象を持たせる詩の数々は、私の心を潤していた。しばらく美しい世界に浸っていると、鐘が鳴る。教室という猛吹雪の中へ戻らなければならない絶望を告げる。私はため息をついて、活字の扉を閉めた。それを元あった場所へ戻し図書室を出ようとすると、後ろからとたとた足音が聞こえる。気にせずに廊下へと出ると、待ち構えていたかのようにとん、と控えめに肩を叩かれた。
「えっと、あの詩集、好きなんですか?」
 それから因幡はいろいろなことを話してくれた。理科が得意なこと。敬語が苦手なこと。朝起きることも苦手で、学校には不定期に来ていること。様々な相談にも乗った。雪うさぎもまた、吹雪の中を歩いていた。私もたくさんのことを話した。国語が得意なこと。自分の名前が嫌いなこと。でも、嫌いな理由は話したことがなかった。
 「梅ちゃん先輩はさ、なんでそんなに『梅』が嫌いなの?」
あのときと同じ詩集を読んでいた私の隣の席に座った因幡は唐突に言った。彼女は椅子を後ろ脚二本で立たせて足をぶらぶらさせていた。私の世界に雲が立ち込める。
「高校生になるまでは好きだったのだけれどね」
「そっか」
答えになっていない私の答えに、因幡は眉をハの字にして笑う。傾いていた椅子を元に戻すと、机に突っ伏した。窓の向こうでふくら雀が飛び立った。
「私ね、通信制高校に移るかもしれない。母が学校行かないならやめろって」
パラパラと乾いた音が聞こえる。外の雪は雹になってしまったらしい。暖房がよく効いているはずなのに、だんだんと指先から氷になっていくようだ。
「私、やめたくない。梅ちゃん先輩と会えなくなるのは嫌なの。でも、母には言いきれなくて」
因幡の瞳は透明な雫で溢れていた。凍りついた心の雪解け水だった。私はポケットからハンカチを出して、とめどなく溢れるそれに当てた。
 しばらく沈黙と鼻をすする音が支配した空間に、ふと湿った因幡の声が溢れる
「梅ちゃん先輩は、梅の花ってどんな花か知ってる?」
「美しい花。嫌いだけど、でも、本当は好きなのよ」
滑り落ちた言葉に私自身も驚いた。本当は、と繰り返した因幡の小さな声が私の耳に届く。
「因幡さん。私ね、教室に居場所がないの」
息をのむ音が聞こえる。横を見れば、目を見開いて私のことをじっと見つめている因幡がいた。その瞳は心配と後悔で満ちている。私はそっと前を向いて、慎重に言葉を紡ぐ。
「大丈夫。私が話したいだけだから。聞いてくれるかしら」
因幡は赤く腫れた目元を擦り、強く頷いた。私はゆっくりと呼吸をして、上を向く。柔らかい電球の光が私を照らしている。もうすっかり冷えた指先をさすりながら私は目を瞑って口を開いた。
「ウメっていう響きは、古臭いらしいの。おかげでクラスは居心地が悪いわ」
目を開いて、窓の外を見る。鴉がたった一羽、殺風景な真っ白の校庭に見えた。先ほどまで降っていた雹はすっかり鳴りを潜めている。
「寂しかったの。因幡さんに会う前は。クラスメイトは挨拶も返してくれないし、陰口だって日常茶飯事だったわ。明日はどんな酷いことを言われるかって、恐ろしかった」
ずっと独りで歩いていた鴉の足跡に、小さな足跡が重なる。ふくら雀が、楽しそうにぴょんぴょん跳ねていた。鴉は風上に立って雀を見ている。
「でもね。私が大好きだった名前が、大嫌いになったことが、一番悲しかった」
穏やかな空が一変して、鴉と雀の足跡が降り出した吹雪にかき消される。
「それでもずっと、私の名前を好きでいてくれる因幡さんは、私の大切な人なのよ」
二羽は共に飛び立った。横殴りの吹雪の中、揃って飛んでいった。
 因幡の方を見ると、先ほど落ち着いた雨がまた頬を伝っていた。私の心を潤してくれる、恵みの雨だ。彼女は先ほど渡したハンカチを握って、しゃくりあげながら言った。
「梅ちゃん先輩、梅ちゃん先輩、あのね。梅ちゃん先輩は灯台なの」
因幡は涙を拭こうともせず、あえぎながら必死に語る。電球の光は、今度は雪うさぎを照らしている。
「梅ちゃん先輩に会うためにね、私、頑張って朝起きてたんだよ。上手く起きれた日は母にも怒られなくてね、体調もいい方に向かうんだ。会えた日は明日も頑張ろうって思えてね、嬉しいの」
因幡は私のハンカチを胸に抱える。
「梅の花ってね、冬の寒さの中いい匂いの花を咲かせてね、その色はよく映える赤色だったり、柔らかい白色だったりするでしょ。梅の花の伝承も、どう行動すればいいか悩んだ時にヒントになってくれる。迷子の私に道を教えてくれるんだよ。古臭くなんかない。ずっと昔から、灯台として立っていただけ。いっつも綺麗で、相談に乗ってくれる梅ちゃん先輩はね、私の灯台なの」
因幡は深呼吸する。校庭の吹雪はいつのまにかやんでいた。鉄棒についた小さな足跡は雀のものだろうか。足跡の主は真っ直ぐ空を飛んでいた。
「だからね、梅ちゃん先輩の名前、私大好き」
陽の光に反射する雪景色は気づけば滲んでいた。ついとあたたかい雫が流れるのを感じて、慌てて袖で目を隠す。因幡は先輩のやつだけど、とハンカチを渡してくれた。
 「梅ちゃん先輩は、梅の花のどんなところが好きなの?」
柔らかな笑みで因幡が聞く。これまで嫌いな理由を並べ立てることはあったが、好きな理由を考え直すことはなかった。私はしばらく目を閉じて、じっくりと思考の海に浸る。真っ白な銀世界に、花の咲いた梅の木が一本。ふわりと上品な香りがして、雪の中、こっちだよとあかりを灯している。
「寒い冬の中、凛と立っている気高さが好き。風に乗る香りも、その色も、姿も。お話の中に出てくる梅の持つ、可憐で優雅な中にある確かな強さと信念は、私の憧れで…」
それを聞いた因幡は笑った。それはもう花が咲くように。春が訪れたように。
「梅ちゃん先輩にとっても、梅の花は灯台なんだね」
 放浪者が、道標を見つけた。燃えるような情熱を咲かせる紅梅と、あたたかなやすらぎを咲かせる白梅を。涙でくしゃくしゃの顔でさらにくしゃりと笑って、放浪者は歩き始めた。誰も見たことがない今日をいく。迷うことはない。心に咲いた灯台が、暖かなひかりを纏っている限り。

 

 

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