Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner

 

春の夜の夢のあとに。/野田莉帆

 雨上がりの夜に、ひと目で好きになった。雨露に濡れたしだれ梅の木。満月の光を浴びて、きらきら輝く八重咲きの白い花が。
 広縁の窓を開けると、上品で甘やかな香りが漂っていた。お気に入りのハンドクリームを塗るときのような香りが、とろりとした眠気を誘う。
 三月の上旬とは思えないほど、あたたかくて穏やかな夜。本当はもう春の夢のなかにいるのかなと、わたしは考えてしまう。広縁の籐椅子に座って眺める風景が、あまりにも幻想的で美しかったから。

 もしもひとつだけ願いが叶うなら、あの夜に戻りたい。あたたかくて穏やかな夜。もう一度だけ、満開のしだれ梅の木を見たい。
 祖母が大切にしていた日当たりの良い庭の梅の木。ひと目で好きになった白い花が咲く木。高さが約七メートル、幅が約八メートル、幹周りが約一メートルの大きな木は……、ずっと枯れたままだ。

   ***

 母の実家は三重県にある。祖母が亡くなってから、しばらく空き家だった。同じ県内に住んでいる叔父が、空き家の管理を引き受けてくれたそうだ。
 でも、誰も住まないのに固定資産税がかかるのは悩みの種だった。叔父も母も、思い出の詰まった家を手放そうか迷っていたらしい。
「わたしが住むよ」と言ったとき、母は驚いていた。田舎町の古い家。最寄り駅はJRのみで、その無人駅まではニ十分以上も歩かなければならない。コンビニは駅の向こう側にあるので、さらに遠い。
「無理に住まなくても……」
「全然、無理じゃないよ」
 同じような会話を何度も繰り返した。母は怪訝な顔をしていたけど、本当に無理したわけではない。
 社会人になって家を出てからというもの、わたしは少しだけ生活が苦しかったのだ。家賃がないのは嬉しい。それに、JRにさえ乗ってしまえば名古屋駅のオフィスまでは近い。

 でも、しとしと降る雨のなかの引っ越しを終えた夜。わたしは後悔していた。お茶の間から広縁へ続く柱に、わたしの当時の身長が刻まれているのを見た瞬間。「会わないうちに大きくなったねえ」という祖母の声が聞こえてくるような気がしたのだ。
 慌ただしい昼間が嘘のように静まり返ったお茶の間で、わたしは追憶に沈んでいく。い草の懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
 広縁のガラステーブルで、わたしは祖母と花札をしている。ぱちっ、と華やかな絵札が重なる音。顔をくしゃくしゃにして優しく笑う祖母。「こいこい」と言われながら、ふたりで待っているのは母の美味しいお雑煮だ。
 お茶の間のこたつテーブルには、色とりどりのおせち料理が並べられている。紅白かまぼこも伊達巻きも数の子も黒豆も昆布巻きも栗きんとんも伊勢海老も、ひとつひとつが艶やかで光をまとっているようだった。祖母が手間ひまかけて作ってくれたおせち料理は、まるで宝石みたいにきらきら光る——。

 静かな夜の窓ガラスに、ひとりぽっちのわたしが小さく映っている。ここへ来なければ良かったと、思ってしまう。ここへ来なければ、追憶に沈むこともなかったのに。
 もう二度と祖母に会えないことを肌で感じる。視界がぼやけた。今にも涙がこぼれてしまいそうなわたしは、心のなかで強がりを言う。きっと淋しさには慣れていくから大丈夫、と。
 淡々と日々を過ごしていくうちに、記憶は薄れていく。誰もいないことが普通になる。まるで、最初からひとりきりで住んでいたかのように生きていく。ふとした瞬間に想起することはあっても、ひとり暮らしを始めたばかりの頃にも似た淋しさは、いつのまにか消えている。きっと、大丈夫になる。
 空気を入れかえようと思って、広縁の窓ガラスに近づいたときだ。雨露に濡れたしだれ梅の木が、目に飛び込んできたのは——。

 思い出の外にある風景だった。わたしの記憶のなかにあった庭の梅の木は、裸の木だ。乾いた空気が漂う寒空の下で、ぽきりと折れてしまいそうな細い枝を無数に伸ばしている木。その一本一本の頼りない枝先に、わたしは茨のような刺々しさを感じてしまう。春になったら綺麗な花が咲くことを忘れかけてしまうほど鋭利で、あんまり好きになれなかった。

 満開のしだれ梅の木を見たとき、わたしは救われる思いがした。庭の梅の木だけが唯一、昔から変わらずにありながら姿かたちが変わっているものだったから。だからこそ過去に囚われかけていた時間が再び、わたしのなかで進み始めた。
 思い返せば思い返すほど、そんな気がしてくる。

   **

「おれ、冬枯れの景色も好きだよ」と、イツキくんは穏やかに笑う。
「寂しい景色が好きってこと?」
「ずっと花が咲いていたら、ありがたみがないでしょ」
「そうだけど……、孤独を愛しているのかと思っちゃった」
 四つ歳下のイツキくんは、東京の大学に通っている。いわゆる遠距離恋愛だ。長期休みになると、ふらっと帰ってくる。まるで猫のような人だった。
 会話をしているうちに、わたしたちの話になってしまったことはお互いに気づいている。だから、イツキくんはまっすぐな瞳でわたしを見つめていた。
「美しい花には棘があるものだからね」と、彼は悪びれる様子もなく言う。
 過去の恋愛で刺さった棘が抜けていないのかなと、わたしは思った。たまに逢うから、ありがたみがある。棘が刺さらない距離感のわたしたち。お互いを傷つけない距離感は薄情だけど優しいから、いつも踏み込むことをためらってしまう。
「でも、ずっと枯れているなら異常事態だね」と、イツキくんが窓の外のしだれ梅の木に目を移した。

 春とは名ばかりの寒さの二月下旬。ブロック塀で囲われた五十坪の南向きの四角い庭を、ふたりで歩く。しだれ梅の木は庭の西側に生えている。改めて見ると、やっぱり大きな木だ。下から見上げると、迫力が増す。
 垂れている枝の表面を、イツキくんが折りたたみナイフで器用に剥く。いくつかの枝を剥いてみるけど、どこまでも茶色い。木の裏側に回ると、ぽっかりと幹の根元に穴が空いていた。小動物が入れそうなくらいの樹洞だ。
 木は死んでいた。もともと、木の大部分は死んだ細胞でできている。死を内包して、木は生きている。だから、これほど緩やかに死んでしまうものを、わたしは今までに見たことがない。

 あの日から、イツキくんはどこか上の空だ。窓辺から、ぼんやりと木を眺めていることが増えた。いつもは一週間くらいで帰ってしまうのに、帰ることも忘れているみたいだ。
 一日の仕事が終わると、わたしは家路を急ぐ。今日はまだいるかな、もういないかも……と考えながら、足早に歩く。
 夕闇のなかの曲がりくねった坂道。片側に広がっていた竹林が途切れると、家の台所の灯りが見えた。仄暗い家に帰らなくてもいい。まだイツキくんがいてくれることが、たまらなく嬉しい。
 玄関の引き戸を開けると、香ばしい匂いがした。台所の暖簾からイツキくんが顔を出して、穏やかに笑う。
「おかえり、ご飯できたよ」

 お茶の間のこたつテーブルに、お椀型の炒飯と餃子が並べられている。イツキくんと向かいあって、手をあわせた。
 スプーンでお椀型の炒飯を崩して、口に運ぶ。ご飯のひと粒ひと粒が卵をまとっていて、パラパラと口のなかでほどけていく。ごま油の風味が鼻に抜けた。
「美味しい」
「パラッと香ばしく仕上がる炒飯の素を使用しています」
「こっちは冷凍の餃子?」
「ご名答」
 イツキくんがおどけた口調で言うから、ふふっと笑ってしまう。
 こんがりと羽根の部分に焼き色がついた餃子を、酢醤油につけて食べる。皮がパリッとしていて、歯触りが心地いい。噛みしめると、じゅわーっと口のなかに肉汁が広がった。誰かが自分のために作ってくれたものを食べることは、すごく幸せなことだと改めて思う。
 お礼を言おうとしたけど、イツキくんはまたぼんやりしている。箸を持つ手が止まっていた。おもむろに、彼は口を開く。
「あのさ、今日は庭で寝てもいい?」

 星が降るような夜。しだれ梅の木の下に、銀マットを敷いた。寝袋に包まれたイツキくんが、木に寄りかかる。比較的あたたかい夜とはいえ、わたしは少し心配になった。
「寒くない?」
「ううん、寝袋があったかい」
「いつでも家に戻ってきていいからね」
「うん」
 ぽっかりと幹の根元に空いていた穴が、イツキくんの身体で埋められている。寝袋のなかで丸くなるイツキくんは、わたしに生まれて間もない赤ん坊を連想させた。不思議な気分だ。

 その夜、わたしは夢を見ていた。
 空が白み始めた頃に、目を覚ます夢。わたしの部屋の天井が、ぼんやりと視界に入っている。
 イツキくんに呼ばれたような気がして、身体を起こす。厚手のカーディガンを羽織って、庭に出た。イツキくんの姿が見えないので、わたしは首を傾げながら声がするようなほうへ歩いていく。
 しだれ梅の木の裏側を見た瞬間。思わず、息を呑んだ。身体が固まる。
 ぽっかりと空いていたはずの樹洞から、イツキくんの顔が覗いていた。木に取り込まれている。
「最後に逢えてよかった」と、彼は淋しそうに笑う。
 わたしが瞬きをすると、イツキくんの顔が消えた。眼前の木の幹に、穴は空いていない。そっと指先で木の幹に触れる。イツキくんの温もりが伝わってくるような気がした。

 夢から目が覚めたとき、イツキくんはもういなかった。何となく気になって、わたしは庭の梅の木を見に行く。木の裏側にあったはずの樹洞が消えていた。垂れ下がった枝に、小さな新芽が出ている——。

 こんなことは現実にありえない。本当は、気づいている。わたしは孤独を感じるとき、心のなかに庭の梅の木を見る。
 満開のしだれ梅の木は、いつの日も春の夜の夢のなかで咲く。淡く、儚い幻のなかで。

 

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