Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize Winner
春のコインランドリー/小野みふ
しんとした夜ふけ、ユユは転がるように山をおりました。梅の木の後ろから顔だけ出して、にっこり笑います。 「洗濯物が放りこまれて、ココココン」
古びたアパート一階にあるコインランドリーの中。
ひょろっと背の高い青年が細い穴に五百円玉を入れて、パイプ椅子に浅く腰をおろしました。連絡ノートをつかんで、一ページずつめくっていきます。
骨ばった手がぴたりと止まって、ユユはいく晩か前につづった文を読み上げました。
「おいしいはるが、やってきましたね」
ピー!
ブザーが鳴って、洗濯が終わりました。青年がかすかにほほえみながら、バッグをかかえて去っていきます。寝ぐせのついたボサボサ頭を見送って、ユユはぽんと飛びはねました。
ガラス戸を通ってノートを開いてみれば、心にじいんとしみいる一句。
『ふきのとう春が来るまでかくれんぼ』
ユユは目を細めて、うっとりため息をもらした。
「ほっ、すてきだな」
おひさまみたいな乾燥機のにおいにつつまれて、ぬくぬく、あったか。
気まぐれな文通はつづいて、うすくかすみがかった夜。ユユは夢中になって、せまい山道をかけおりました。
手には、もぎたてほやほやのふきのとう。ノートの上にのせると、ふわっとまあるくふくらみました。
その夜、青年から返ってきた句は、春ここにぼくの心はあゝ―――。
「あゝ」
ユユはか細くうなりながら、じっと待ちます。来る日も来る日も熱く胸をこがして、あゝにつづく、たましいの叫びを。
(もう元気になって、昼間に来ているのかしらん。なにか新しいメッセージが届いているかもしれないな)
ユユはぱっとひらめいて、はじかれたように黒くぬれた道を横切りました。だれもいない店内の待合テーブルめがけて、まっしぐら。
『こんにちは。お元気ですか』
ノートの最後のページにつづられていたのは、彼あての短い手紙でした。
『あなたの絵も句も、とても気に入りました。
よかったら、うちでいっしょに働きませんか。
お返事を楽しみにしています。
アトリエ アリア』
ユユはひげをヒクヒクさせて、宙をにらみました。はげしい雨風が、窓をたたきつけます。乱暴に鉛筆でぬりつぶそうとして、よりいっそうけわしい雨音が耳にこだましました。
びしょぬれになりながら、しわくちゃな作業着をかかえてふるえる背中。長くのびた前髪の合間から、うつろな視線をさまよわせていましたっけ。
いったん連絡ノートを閉じてから、おもむろに表紙をめくってみました。
『また失敗しちまった。何したって全然ダメだ。情けねえや』
投げやりにぶちまけられたいらだち、あせり、やるせなさ。その下に描かれているのは、するどい牙をむいた竜です。
うすっぺらい紙からぬけだして、かみついてきそうで、あゝ……。く、苦しいよー。
ユユは歯を食いしばりながら、両手をもみ合わせます。
――おい、バカを言え。たまたま嵐の夜に見かけて、はげましたい一心で覚えたてのひらがなを書きつらねてきたんだろ。どうにか立ち直って前に進めるよう、ずっとのぞんできたんじゃないのか。なのに、なぜじゃまをして、チャンスの芽をつみとろうとするんだ!
竜の忠告でしょうか。あるいは、内なる悲鳴にも似て、ユユはふりはらうようにかぶりをふって、がっくりうなだれました。
あたしのほかにもいたのね。青年の痛みにふれて、ひそかに応援しつづけていた人が、すぐそばに……。
さあ、行かなくちゃ。
ノートを広げっ放しにしたまま、ユユは勢いよくガラス戸をくぐりました。息を切らしながら、つぼみほころぶ梅の木によりかかります。
来い来い、来るな。
来い、来るな。
来い来い来ーい!
心の中で祈りながら、声をかぎりに叫びます。何度も、くり返し。
「あっ……」
青年が赤いパーカーのそでをたくしあげて、店に入りました。大きなバッグが逆さまにされて、すっかり空っぽ。とりどりの服がくるくる回ります。
パイプいすに座ると、鉛筆をにぎりました。まっさらな紙の上を、すいすいすべっていきます。
ブザーが鳴って一着ずつ取り出されたあと、ていねいに折りたたまれて、バッグにつめられて――。
切れ長の瞳に、希望の光がさしました。洗いたてのシャツのように、パリッと告げます。
「いつからでも働けます。ぜひ、よろしくお願いします」、と。
「これでいいのいいの。これが、いいの」
ユユは自分に言い聞かせるように、ふさふさしたしっぽをゆらしました。
アパートの階段をのぼる靴音が、さわやかに響きわたります。
まもなくして、三階のはしっこの明かりが消えました。
「いま、春ここに! コンコンコーン」
ユユは力をこめて、一歩ふみだしました。
ちいさな足跡をそこここにつけながら、あまやかな梅の香りに満ちた山奥深くへ帰っていきます。
第一回 Mr. & Mrs. Abe Arts & Culture Prize
入賞作品
Our Story
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ブランドの問いと哲学
"Be the Origin of Meaning."
この言葉は、Mr. & Mrs. Abe の根幹を成し、創造の道しるべ。
「意味」がブランドや価格、他社や海外の価値基準に委ねられていないか?
私たちが提案するのは、こうした画一的で外部中心の評価軸から脱却し、
「個人の記憶や感情、精神的な共鳴」といった内面に根ざした新しいラグジュアリーのパラダイム。
これは、単に「高価であること」「誰かにすごいと思われること」ではなく、
“なぜそのジュエリーを選び、身に纏うのか”という個人的な理由や物語に価値を置くということ。
Mr. & Mrs. Abe が象徴として選んだのは、「梅」という一輪の花です。
その「たった一輪の花」に徹底的に没入することで、フォーカスを絞りコンセプトに集中しています。
この一点への集中は、ジュエリーにおけるラグジュアリーの再構築そのもの。
多くの選択肢や華やかな装飾ではなく、意味の深さと密度を追求するのです。
これにより、「ラグジュアリー=社会的承認」という古い枠組みを静かに解体し、
「ラグジュアリー=個人の真実」へと書き換えています。
私たちの作品は批評的思考の使者であり、思考と記憶、文化的対話を促すために作られています。
問いかける――「永続とは何か?」「美を所有するとはどういうことか?」
Mr. & Mrs. Abe は単なるブランドではなく、身にまとう哲学である。
地位ではなく文化を、模倣ではなく意味を求める人のために。
他人が定めた序列を追う必要はない。
ジュエリーは単に光を反射する金属ではありません。
それは何を信じ、何を選び取るかという態度の表明です。
Mr. & Mrs. Abe のジュエリーを身につけることは、
問いを生きることを選ぶこと。
問いかけ、挑み、記憶するシンボルと共に歩むことです。
私たちは広告費で「第一想起」を目指すメゾンではありません。
美しさや価値は刷り込まれるものではなく、内から目覚めるものだと信じています。
文化的プレゼンスは数字ではなく記憶に宿ります。
あなたは意味の消費者ではなく、意味の起点です。
価格の序列やブランドのエコーに惑わされず、
あなた自身の問いの深さと感じた確かさを信じてください。
Be the Origin of Meaning.
Mr. & Mrs. Abe