プラナスミューメ特別賞

 

唇に花/糸野 麦

 そのバスがやってくるとき、僕は彼女に会えることだけがすべてで、ただ、それだけだった。
「遅くなってごめんね、道が混んでてさー」
毎週水曜日の午後15時。長く細い髪を後ろ側でひとつに結った日茉莉《ひまり》さんがバスから降りてくる。近くですれ違うとき、首筋あたりから香るほんのりとした甘い香り。明るくて爽やかな日茉莉さんから、そういう上品な香りがするところも、僕が彼女に惹かれている理由のひとつだった。
「道に迷ったのかと思った」
「え、豊田くん、それはちょっと私をばかにしすぎ」
「そうかな」
「そうだよー、もう何回ここ来てると思ってるの。しかも職場からほぼほぼ一直線だよ」
「うそうそ。いつもありがとう」
「どういたしまして」
「今日は新刊、どういう系統が入ってる?」
「んとね、今日はこの辺かな」
日茉莉さんは、隣の市から僕の住む村に移動図書館の車で本を貸し出しにきてくれる、図書館司書だ。数年前、少子化の影響で村の児童館がなくなったとき、同時に一角にあった図書コーナが消えたことでこの取り組みが行われるようになった。中学生の頃から読書が好きだったこともあって、移動図書のバスが来る、という話を噂で聞いたときは胸がくすぐったくなるような嬉しさでいっぱいだったことを覚えている。
「豊田くんって、今何年生?」
「高校2年生です」
「そっか。若いね」
「日茉莉さんだって、まだまだ若いじゃないですか。なんで大人ってそんな簡単に若くないアピールするんですか」
「ごめんごめん。でもさ、たぶん、気持ちの問題」
「なに、それ」
「25歳越えるとね、15とか16のころ、自分が考えてた未来の自分と現実の自分の違い、っていうほど大げさじゃないんだけど、そのころの自分に比べていろんなことに対して、臆病になってるなあっていうか、守りに入るっていうか、そういう感覚があるんだよね」
表紙の綺麗な本を棚から取り出すと、長い睫毛をぱちりと何度か揺らして日茉莉さんは小さく笑った。僕は唾を飲み混む。彼女が伏し目がちになる瞬間、自分自身のどうしようもない無力さを感じる。
「そっか。でもそれって悪いことなの?みんな誰だって傷つきたくないし、そのことに年齢なんて関係ないだろうし、僕は、そう思うけど」
「そうだよね。うん」
「だから日茉莉さんもこれから年下と話すとき、線引く、みたいな話し方しないでよ」
自分の口調がこどもじみていて、こういうところが日茉莉さんの感じる僕との境界線なんだろうと思った。それと同時に、そういうことを口に出してしまうところが、若い、ってことだよ、と言われてしまっているようにも思えた。僕は口をつぐむ。日茉莉さんの前だと感情のコントロールが上手くできない。
「分かった。豊田くん、ありがとう」
続けて、はい、これ、と言って日茉莉さんが僕に差し出したのは、『唇に花』という一冊の本だった。到底一日で読めるような厚さではない。
「この物語わりと長いんだ。だけど、描写がとっても綺麗だから豊田くんにも読んでほしい」
「どういう話?」
「話しちゃっていいの?」
「うん、あらすじだけ」
「そっか。んー、難しいな。とりあえずじゃあキーワードだけね」
「いいよ」
「まずは、永遠の冬。一輪の花。それと」
「それと?」
「分かち難い、愛」
愛、という言葉をためらいなくはっきりと口にした日茉莉さんの表情に魅了されて、僕は一瞬、全身が力む。
「これが新刊だからってわけじゃないよ。本が好きで、物語が好きで、いろんな世界の美しい切り取り方を豊田くんにも知ってもらえたらって思うから、これ、薦めるね。どう?」
特別光が差し込んでいるわけでも泣いているわけでもないのに、艶めいて光る瞳と目尻。僕が美しいと思うのは、日茉莉さんのほうだとこれから何度思えばいいのだろうか。
「分かった。来週までには読み切れないかも知れないけど」
僕は日茉莉さんが目の前に差し出した本を左手で受け取ると、急ぎ足でバスの階段を降りた。言いかけのまま立ち去るように出てきたのは、これ以上二人きりの空間でいるのが苦しかったからだ。日茉莉さんのことをどれだけ強く思っても、僕の今の年齢は一生彼女の年齢に追いつかない。そして、直接聞いたことはないけれど、日茉莉さんにはきっとあたりまえのように恋人がいる。僕は学生で、日茉莉さんは社会人。僕はこどもと大人の間を生きる中途半端さを持っていて、日茉莉さんにはそれがない。この関係を前に進める、という選択肢すらない。だからこそ、日茉莉さんの柔らかく笑う表情を向けられると、もどかしさで胸がちぎれてしまいそうだった。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ。
突然降り出した小雨に紺色のブレザーが濡れて濃くなっていく。バスの中に用意されていた傘を、きっと日茉莉さんは貸してくれただろうけど、僕は道を引き返さずに家に向かって歩いた。僕の頬を打つ7月の雨は生ぬるい。



日茉莉さんが図書館司書を辞める、という噂を聞いたのは、あの本の最終章を読むと心に決めていた8月の下旬のことだった。噂よりも事実に近いそれは、気づけば村中のいろんなひとが知っていた。そして、ひとしきり盛り上がったその話題は、次第に日茉莉さんのことから次に担当する図書館司書のひとへの興味に移っていって、高校の友人も、両親も、スマホの中の芸能人のトップニュースを共有するみたいに楽しそうだった。

あの子、東京行くんだって。もともと田舎より都会で働きたかったんだと。
良い子やったよね。ほんと寂しいなあ。
どこ行ってもうまくやってけるでしょ。可愛くて愛嬌あったもんねえ。
ほら、長いこと付きあっとる彼氏さんおったでしょう。
東京、いいなあ。日茉莉さんに似合うなあ。

みんなの口から発せられるどんな言葉にも共感できないまま、最後の出勤日だと噂されていた水曜日になった。部屋の勉強机の上には借りたままの本が一冊。大切な日に読もうと思っていた最終章は、まだ読めていない。時計の針は16時を指している。夏の午後の強い日差しを頬の左側に感じながら僕はベッドから起き上がって、するりと本を手に取った。



「元気だった?」
彼女は、良く晴れた日に設置するパラソルの下で簡易ベンチに座りながら本を読んでいた。その目線は文字を追うばかりで僕の方を向かない。
「なんで」
「え?」
「なんで誰よりもはやく教えてくれなかったの。なんでもう、辞めるの」
日茉莉さんは一瞬とても驚いた顔をした後、今度はこちらを見て切なそうに目を細めた。
「ごめんね。豊田くんにはなかなか言い出せなかったんだ。ほら、よく遊びに来てくれてたし、私の薦めた本とか沢山読んでくれて感想教えてくれる可愛い子だったから」
僕は、可愛い子、という部分にひっかかりながらも座っている日茉莉さんの近くに寄った。
「こないだ借りた本、まだ、最終章まで読めてない」
「うん」
「それに、日茉莉さんが教えてくれたキーワードとこの物語の意味も上手く結びつかない」
「うん」
「だけど、だけどじゃないな」
日茉莉さんの本をめくるページが止まる。すぅ、と鼻から息を吸う僕と目があった。
「これから先も、ずっと笑ってて」
僕は、日茉莉さんの耳たぶで控えめに輝く小ぶりな花とパールの揺れを見つめる。“幸せになって”も、“幸せでいて”も、なにか違う気がした。日茉莉さんは、口角を上げると頬を赤らめて嬉しそうに笑う。初めて見る、うるんだ瞳からこぼれた涙を払うそのしぐさも、やっぱりとても好きだと思った。
「ありがとう」
僕は中学2年生の頃にはじめて日茉莉さんと出会ったころから今日までの日々を思い出す。バスのなかで優しく本に触れて、ページをめくると顔がほころぶ瞬間。児童や学生の僕たちの名前をちゃんと覚えていて、どれだけ期間が開いても名前で呼んでくれる瞬間。楽しいことがあると大きく口を開けて楽しそうに笑う瞬間。この場所に向かうとき、広場で待っているひとを遠くから見つけると、嬉しそうにこちらに向けて大きくぶんぶんと手を振る瞬間。
「日茉莉さん、あのさ」
「この物語、日茉莉さんのすきなひとの、すきな物語でしょう」
座っていた日茉莉さんの手をぐっと手前にひいて、その上に本をそっと置く。大きな瞳をさらに大きくさせた日茉莉さんは、どうして分かったの、と優しく微笑んで僕に尋ねた。

『日茉莉がおとなになったら最終章を一緒に読むことに決めたよ。だから今は、今日の日の梅の花を閉じて、ここに贈ります。1995年2月7日 母 東京都 自宅にて』

「それにこの本には貸出用のバーコードが付いてない」

僕は本に挟まれていた栞のページを開く。ああ、そっか、そうだよね、と恥ずかしそうに俯いて話す日茉莉さんは、本の最終章手前のページを開くと、その言葉が裏面に書かれた花の栞に静かに触れた。
「お母さんの持病が悪化しちゃって、あっちに戻ることにしたんだ。最後まで読んでないうえに貸した挙句、こんな結末になってごめんね」
「どうして謝るの。謝る必要なんてないよ。日茉莉さんの大切な本貸してくれてありがとう」
「ほんと……豊田くんは優しいね」
「優しさで言ってるわけじゃないよ。ほんとに思ってるから言ってる。それに」
「日茉莉さんからもらったもののほうがずっと多いから、だから、ありがとう」
さらさらと肌を撫でるような柔らかい風が吹く。日茉莉さんは、左手をぎゅっと握って口元を抑えて、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとう」
正しさも、嘘も、入り交じった世界のなかで、これから先もたくさんの美しいものに囲まれて生きていけますようにと僕は願った。日茉莉さんが口元を抑えて涙を拭う左手の薬指では、赤みがかったゴールドの花の指輪が輝いている。

 

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